近所の草花を”野にあるままに”生ける -SIDE BURN 太市さんの習慣 前編-
生半可な覚悟で花を生けてはいけない
一度切ってしまった草花は、元に戻りません。花を生けるのは命を生けるということだから、緊張感がある。そして、花というプリミティブな美と向き合うことで、自分の美意識が磨かれていると思います。
花を生けるとき、僕は中途半端な花器を使いません。安物の花瓶にさすなんてもってのほか。命に敬意を払う意味で、そこらの花瓶とは別次元の価値ある花器を選んでいます。「近所の草花」のために揃えた花器は、骨董屋さんで見つけた一品ものばかり。多少、値が張るけれど、骨董品は「出会い」が大切だから、いいものを見つけたら買うようにしています。
生け花の土台にあるのは、千利休の「茶室」に代表される「引き算の美学」です。省けるものを全て省き、余計なものがないからこそ感じられる豊潤な宇宙。日本の美に触れるということは、その宇宙の入り口に立つことと同じです。生け花を本気でやろうと思ったら、半端じゃない覚悟がいる。だけど、僕はそこに惹かれています。
千利休の「花は野にあるように」とか「あるがまま」の思想をすっと受け入れられたのは、僕が同じことをサロンワークで感じていたから。たとえば、盛って盛ってこねくりまわしたような、作者のエゴが入ったコンテストヘアーは、見られたものじゃない。僕は、引いて引いて、素材が浮き彫りになるような、みずみずしいビジュアルづくりをしたいんです。