「お尻のポケットに札束をねじ込まれました」宮村さんのカリスマブーム時代の衝撃の思い出とは。「NOBU’S KITCHEN」Vol.4ゲストAFLOAT 宮村浩気さん【後編】
疲れちゃったから、まかせるように、宮村さんのおおらかさの秘密
―以前、QJナビDAILYで連載していた佐藤ゆみさんのコラムで、「任せる人」と言われていましたが、こんなにサロンが大きくなって、任せるのを怖くなるときはないんですか?
宮村:う〜ん、今と比べて昔は確かに注意していたことも多かったし、店舗内装も全て自分がディレクションしていた時期があったけど、怒っても意味がないなぁと思って。一度伝えれば理解できる人が多いのに、同じことを何回も注意してしまったりするとものすごく嫌がられる。
NOBU:怒ると動きが小さくなりますよね。
宮村:うんうん。
で、代表として全部自分でやってたら、ほとほと疲れちゃって。
まかせる勇気って必要なんだなぁ、って思ったんだよね。言いたくなるのを我慢して、まかせてたらみんな勝手にやってくれるし、それに実際に働く人がお店のことを分かっていたほうがいいんだな、って気がついて。そこからはあんまりいろいろ言わなくなったかな。
NOBU:僕ももういろいろ言わなくなりましたね。
プレイヤーとして、営業時間中の背中を見ておいて、と思います。その背中見せておかないと、アシスタントがスタイリストになったとき、お客さんにどう接すればいいのか、仕事の仕方も含めて、分からなくなっちゃうんじゃないかな、と思うんですよね。
宮村:僕は経営者としても人としてもおおらかでいたいんですよね。
スタッフにとって父親のような、なんでも許せる広い心は持っていたい。誰もが失敗するけど、チャンスを与えれば成長する。そういう人でいたいなぁ。
給料手渡し時代、どうやって給料を渡された?
―宮村さんのレジェンド話聞きたいですね。AFLOAT立ち上げ前の話とか。
宮村:う〜ん、立ち上げ前…四ツ谷のお店で働いていたとき、撮影の仕事があるお店ではなかったけど、ある日一回撮影の依頼が舞い込んで。そのヘアスタイルが好評で、その後、1日20人きてくれるようになったときにすごくびっくりしました。そのときはまだ雑誌がすごく元気な時代だったから、リターンも大きくて。
それから青山にAFLOATを出店して、はじめは無名店だったから、お店もガラガラ。自分で企画書を書いて出版社のドサ回りなんかもやっていましたね。
あるとき、CanCam(小学館)で企画とスタイルが採用されたら1000人もきてくれた。当時のCanCamは100万部売れていたから反響もものすごくて、あっという間に人気サロンになりましたねぇ。
そうそう。その当時は、給料が振り込みじゃなくって手渡しだったんです。月300万円とかもらっていたときもあったんだけど、忙しすぎて受け取れなくて、オーナーに札束をお尻のポケットにねじ込んで渡されていました(笑)。お客さまも見ている前なのに(笑)。
全員:うわ〜〜〜〜。
―すごい時代ですね。
宮村:その代わり、媒体からのプレッシャーもすごかったんだよね。
アンケートの結果とか、編集の評判とか。部数にも関わる話だったから、毎回必ず結果を出さないといけない。それに僕たちの仕事は髪もメイクもできちゃうでしょ? 本職のヘアメイクさんから「変」って言われたりもしたなぁ。今はもちろんそんなことないよ!
NOBU:僕たちも最後の雑誌世代だから、モデルの囲い込みしてましたね。弱小サロンだったから必死でした。
当時はアメブロ全盛期だったから、「絶対ブログ書いてね〜〜!」ってお願いしたり。みんな書いてくれないんだけど(笑)。
でも今はサロン名で売れる時代じゃなくて、個人の時代ですよね。SNSの台頭で個人の強みを活かせるようになった。僕は正直オールラウンダーじゃなくて、自分の好きなスタイル、強みを伸ばして行く方向にシフトしたいんです。
宮村:僕もサロンワークも大事にしているけど、未だに撮影は大事。
ディーラー関連や、サロンの撮影で、海外に行くときはエッジの効いたものを提案します。
一般紙でも、「おっさんになってもいつまでもかわいいを作る!」と、念頭に置いて仕事をしています。