特集「海と美容室」-1st STORY 川畑タケル(BEAUTRIUM)-なぜ川畑タケルは七里ヶ浜を拠点に選んだのか?-

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サーファーからカリスマへ。そして再びルーツの海辺に

 

—まずは現在に至るまでの、川畑さんの経歴をお伺いできればと。

 

「20歳の頃に美容学校を出て、半年くらいで美容師を辞めてしまったんですよ。それから24歳くらいまで大磯とか小田原の辺りでサーフィンに明け暮れていましたね。海の家でバイトして、お金が貯まったら、ハワイに行ったりして過ごしていました。ハワイで、海風になびいて、日に透ける金髪の女の子の髪の毛を眺めたりしているうちに、“美容師をもう一度するなら、こういう女の子の雰囲気を作ってあげたいな”、なんてぼんやり思ったんです。それから、再び美容師の仕事に戻って、大阪でもう一度シャンプーマンから学ばせてもらいました。その後東京・成城にある『パークストリート』というお店で、中山拓次さんのもとで、柔らかいスタイル全般、テーパーカットから、細かいことまで学ばせてもらいましたね」

 

—そこで、“スライドカット”の原型のようなものができたのですか?

 

「そう。ちょうど場所柄お客さんもセレブリティの人達で、帰国子女みたいな子が多くて、その人たちのヘアスタイルを作るのが自分の作風に合っていたんですよね。丁度その頃って、『Olive』のカワイイとかコケティッシュなワンレングスのスタイルがトレンドとしてあった。でも、それをもうちょっと外国人風の軽やかで自然な感じにするには、どうすればいいのかって考えて、試行錯誤していくなかでできていったんですよ。その後28歳で、青山の『BEAUTRIUM』に入って17〜18年やって、七里ヶ浜店を2008年に立ち上げることになったと」

 

—なるほど。“スライドカット”の名付け親はご自身?

 

「それが、実は名付け親は当時の『JJ』の編集者さんなんですよ。僕がやるスタイルは、「横にずらしてスライドして切るから、スライドカットは?」なんて言ってくれて。即決定したんです。当時、ファッション誌にヘアカタログを入れることなんて、まったく主流じゃなかったんだけど、意外と評判が良くて、どんどんやらせてもらえるページが増えていって(笑)。

だから僕の恩人ですね。僕のデザインキーパーソンの梨花にも合わせてくれたのも『JJ』の編集さんだったから」

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—東京・青山という流行の最先端の場所で、自らがムーブメントを作っていく時代を過ごされて、そこからまた海辺である七里ヶ浜に戻ってきたのは、どんな経緯があったのでしょうか?

 

「今思い返せば、『いずれは海の側でお店をやりたい』という気持ちは最初からありました。でも、無名時代に都心から離れたところにお店を構えても、顧客さんが来てくれるかってすごく心配だったし、そんなことはすっかり忘れていて。だけど東京で、山のようにモデルさんとか芸能人さんが来てくれるヒリヒリするような日々を過ごすうちに、ちょっと心が疲弊してきていたんでしょうね。撮影でインドに行ってガンジス川に浸かっているときに、『あ、海辺で店開きたかったんだ!』とふと思い出したんです、ずっとやりたかったことを(笑)」

 

—今でこそ、鎌倉はクリエイティブやカルチャーの発信源として一定の認知を得ているわけですが、当時、鎌倉に移ることに躊躇はなかったのでしょうか? 例えば、お客さんが離れてしまう心配とか。

 

「不安は今でもありますけど、それでもきっと上手くいくだろうと思っていました。実際に七里ヶ浜をオープンして、2年経った今でも当時の顧客さんの半分以上が来てくれるし、こっちにお店を構えたことでまた違った人も来てくれるからやってよかったなと思いますね。東京にいた時とまるっきり生活が変わって、お客さんへの接し方も変わったなと思いますね」

 

>川畑タケルの七里ガ浜でのワークライフ

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