美容師小説

美容師小説

-第8話-­【1942年 ロンドン】 美容師なんか、イヤだ。

  美容師に、なるつもりはなかった。

 なるなんて考えたこともなかった。

 めざしていたのはフットボール(サッカー)の選手。『チェルシーF.C.』のエース・ストライカーになる。それが第1の夢だった。それがダメなら建築家。ヴィダルの頭の中にはそのふたつしかなかった。

 14歳の、あの日の朝までは……。

 

 1942年の5月のことである。

 その日、母がめずらしく硬い表情で呼び止めた。

 「ヴィダリコ、ちょっとお話があるの」

 母はヴィダルのことを「ヴィダリコ」という愛称で呼んでいた。

 食事用の狭いテーブルで向かい合う。いつものイスにヴィダルを座らせると、こう切り出した。

 「夢を見たの」

 そう言って、ヴィダルの目をまっすぐに見つめる。

 「あなたはヘアドレッサー(美容師)になるのよ」

 

 「えっ?」

 意味がわからなかった。美容師って。あの、女の人の髪の毛を梳かしたりする仕事? カーラーに髪の毛を巻き付ける仕事? このぼくが?

 「夢のお告げなの。あなたは美容師になる。そしてきっと成功する。あなたが大活躍する姿を見たの。とってもすばらしい姿だったわ」

 硬い表情は消え、いつの間にか夢見る少女のような顔になっている。

 いや、そんなことに感心してる場合じゃない。なんてことだ。美容師? 冗談じゃない。

 「イヤだ。絶対にイヤ。ぼくはフットボールの選手になるんダよ」

 「いいえ。あなたは美容師になるわ」

 「フットボールがダメなら建築家になるんダ」

 「ざんねんね。美容師なのよ」

 「イヤ。ダメ。ムリ」

 「ふふっ。だいじょうぶよ、ヴィダリコ。間違いないから。悪いけどママの予感は当たるのよ」

 いくら反論しても無駄だった。聞く耳を持たない母は、ヴィダルに面接の日を告げる。なんとすでに就職先まで決めていたのだ。

 「コーエンさんのところよ。ホワイトチャペル・ロードの美容室。イーストエンドで一番の美容室よ。上手だ、ってとっても評判がいいの。コーエンさんのことを、みんな敬意を込めて“教授”と呼ぶのよ」

 教授だろうが、先生だろうが知ったことじゃない。とにかく美容師なんかイヤだ。

 

 それでも、面接の日はやってきた。母はヴィダルに服を着せる。普段着の替え着なのだが、それが一番上等の服だった。貧しい家には、服がほとんどなかった。

 

 ホワイトチャペル・ロードは、広い通りだった。バスを降りると母はさっさと歩く。後につくヴィダルは、懐かしい思いを抑えられないでいた。通りの向かい側の路地を入って一本裏の細い道。ペティコートレーンのウエントワース・ストリートに、ヴィダルは母と、弟のアイヴァーとともに住んでいたことがあるのだ。

 ヴィダルは、いつ路地へと逃げだそうかと考えていた。あの路地はつながっている。あのウエントワース・ストリートに。たくさんの友だちと、ボールを蹴り合った道に。

 と、そのときであった。母の足が止まった。

 「着いたわ」

 

 ドアの前に立つ母の後ろから、ヴィダルはその店をのぞき込んだ。

 両側はガラス張りのショーウインドウである。真ん中に入口。左側には10個ほどの人形が並ぶ。すべて肩から上の人形だ。そのヘアスタイルはさまざまで、カラーも巻き方も長さも違う。

 なんだこれは。かつらか……。

 ヴィダルが見入っている間に、母はドアを開けた。

 

 

 ミスター・コーエンは小柄なおじさんだった。顔にはやわらかな笑み。だが、向き合うとその存在感に圧倒されるような気持ちになる。背筋をピッと伸ばし、ていねいにイスを勧めてくれた。

 

 座るなり、母は語り始める。ヴィダルはその隣で、うつむいている。母は、これでもかというほどにヴィダルのことを自慢した。このコがどんなに賢いか。どんなに我慢づよいか。どんなにステキな未来を約束されているか。聞いているヴィダルは恥ずかしくなる。

 

 ミスター・コーエンは、母の話に辛抱強く耳を傾けている。にこやかに。時折、大きくうなずきながら。やがてゆっくりと右手を持ち上げて、ミスター・コーエンは母の話を止めた。

 「サスーンさん。お話はよくわかりましたよ。いいでしょう。来ていただきましょう」

 

 えっ。ヴィダルは顔を上げた。隣の母は大喜びだ。

 「で、サスーンさん。ヴィダルくんは見習いとなります。どんなに覚えがよくて、才能に恵まれていたとしても、トレーニング期間は最低でも2年はかかります。さらに、本当にうまくなるにはその何倍もの時間が必要です」

 「ええ、それはもうわかっておりますわ、ミスター・コーエン。ぜひこのコを鍛えてやってくださいませ」

 

 マジか。

 ヴィダルは狼狽した。ぼくは本当に美容師になるのか。

 

 「わかりました。鍛えましょう。で、サスーンさん、私たちは見習いを一人前の美容師に育てるのに100ギニーいただいてます。そのことはご存知ですよね」

 ひゃ、ひゃくギニー。ヴィダルは驚いた。見たこともない大金だ。その金額を聞いた瞬間、母の身体が固まった。

 

 よしっ、この話は壊れる。ウチに100ギニーなんて大金、あるはずがない。

 

 ヴィダルは心の中でガッツポーズ。母はイスから崩れ落ちそうになる。ヴィダルは母の腕をとり、しっかりと支えた。

 

 沈黙の時間が過ぎていく。

 母は大きく深呼吸をすると、ようやく言葉を絞り出した。

 「ミスター・コーエン。ごめんなさい。私たちには100ギニーは払えません」

 

 おそらく、こんなやりとりは今まで何度もあったのだろう。ミスター・コーエンは気にすることなく、それまでと同じ笑顔で立ち上がる。ヴィダルも母を支えながら立ち上がった。

 

 「ありがとうございました」

 ヴィダルはミスター・コーエンと握手を交わした。顔には満面の笑み。一方、母は顔面蒼白である。

 (あの夢のお告げが、なかったことになっていく。あんなにドキドキ、わくわくした日々。ヴィダリコが美容師として脚光を浴びる未来が、消えていく)

 

 ヴィダルはまっすぐにドアへと向かい、母のためにドアを開けた。母は、足を前に出すのがやっとという状態だ。母を待つ間、ヴィダルはもう一度、帽子を取って、ミスター・コーエンに向かって深々と頭を下げた。

 ドアを開けたまま、まず母をエスコートして外へと送り出す。そのあとでヴィダルはもう一度、頭を下げてから通りへと抜け出した。ドアをゆっくりと閉めながら、ヴィダルは飛び上がりたい心境になっていた。

 よしっ。これで『チェルシー』の、エース・ストライカーになる道が復活だ。

 

 ヴィダルは傷心の母を支えながら、バス停に向かって一歩を踏み出した。

 と、そのときである。

 今、出てきたばかりのドアが開く。

 「ちょっと待って」

 ヴィダルが振り返ると、そこにはミスター・コーエン。

 「キミはどうやらとてもいいマナーを身につけている。礼儀正しいし、感謝の気持ちも伝えられる。最近の14歳にはめずらしい美徳を備えている。だから今度の月曜日からスタートだ。100ギニーのことは忘れてもらってかまわないよ」

 ミスター・コーエンは胸を張り、母を見つめる。その表情は、まるで人類史最高の善行をしたかのようだ。

 打ちひしがれていた母の表情が一変する。笑顔が戻るどころか、母は泣き出してしまうのだ。

 ヴィダルの表情も一変する。ショックのあまり、ぽかんと口を開けたまま呆然としてしまう。

 気がつくと、いつの間にか母の演説が再び始まっていた。このコがどんなに賢いか。どんなに我慢づよいか。どんなにステキな未来を約束されているか。

 「あぁ、ミスター・コーエン、本当にありがとうございます。あなたはすばらしい決断をされました。この決断はきっと、未来の世の中を変えることでしょう」

 その隣で、ヴィダルの気持ちは再び奈落の底に落ちていく。マジか。このぼくが、レディたちのための美容師の見習いになるってか。フットボールの仲間たちに、どうやって説明しろっていうんダ。

 

 ようやく、母の“演説”が終わった。

 (ぼくの若き、雄々しいアスリートとしての未来は、ママの夢やら願望とかによって粉々に打ち砕かれてしまった)

 

 帰宅してから数日間、ヴィダルの気持ちは落ちに落ちた。母は、そんなヴィダルの気持ちを理解していた。だが、やさしい言葉はかけなかった。

 母には信念があった。このコは絶対に美容師として成功する。

 

 

 月曜日がやってきた。

 ヴィダルはバスに乗り、ホワイトチャペル・ロードへと向かった。

 午前8時30分。『アドルフ・コーエン』のサロンに到着。

 ヴィダル・サスーンの、美容師としての第一歩がこうして始まるのである。

 

つづく

 


 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房

『Vidal』PAN BOOKS

DVD『ヴィダル・サスーン』角川書店