美容師に、なるつもりはなかった。
なるなんて考えたこともなかった。
めざしていたのはフットボール(サッカー)の選手。『チェルシーF.C.』のエース・ストライカーになる。それが第1の夢だった。それがダメなら建築家。ヴィダルの頭の中にはそのふたつしかなかった。
14歳の、あの日の朝までは……。
1942年の5月のことである。
その日、母がめずらしく硬い表情で呼び止めた。
「ヴィダリコ、ちょっとお話があるの」
母はヴィダルのことを「ヴィダリコ」という愛称で呼んでいた。
食事用の狭いテーブルで向かい合う。いつものイスにヴィダルを座らせると、こう切り出した。
「夢を見たの」
そう言って、ヴィダルの目をまっすぐに見つめる。
「あなたはヘアドレッサー(美容師)になるのよ」
「えっ?」
意味がわからなかった。美容師って。あの、女の人の髪の毛を梳かしたりする仕事? カーラーに髪の毛を巻き付ける仕事? このぼくが?
「夢のお告げなの。あなたは美容師になる。そしてきっと成功する。あなたが大活躍する姿を見たの。とってもすばらしい姿だったわ」
硬い表情は消え、いつの間にか夢見る少女のような顔になっている。
いや、そんなことに感心してる場合じゃない。なんてことだ。美容師? 冗談じゃない。
「イヤだ。絶対にイヤ。ぼくはフットボールの選手になるんダよ」
「いいえ。あなたは美容師になるわ」
「フットボールがダメなら建築家になるんダ」
「ざんねんね。美容師なのよ」
「イヤ。ダメ。ムリ」
「ふふっ。だいじょうぶよ、ヴィダリコ。間違いないから。悪いけどママの予感は当たるのよ」
いくら反論しても無駄だった。聞く耳を持たない母は、ヴィダルに面接の日を告げる。なんとすでに就職先まで決めていたのだ。
「コーエンさんのところよ。ホワイトチャペル・ロードの美容室。イーストエンドで一番の美容室よ。上手だ、ってとっても評判がいいの。コーエンさんのことを、みんな敬意を込めて“教授”と呼ぶのよ」
教授だろうが、先生だろうが知ったことじゃない。とにかく美容師なんかイヤだ。
それでも、面接の日はやってきた。母はヴィダルに服を着せる。普段着の替え着なのだが、それが一番上等の服だった。貧しい家には、服がほとんどなかった。
ホワイトチャペル・ロードは、広い通りだった。バスを降りると母はさっさと歩く。後につくヴィダルは、懐かしい思いを抑えられないでいた。通りの向かい側の路地を入って一本裏の細い道。ペティコートレーンのウエントワース・ストリートに、ヴィダルは母と、弟のアイヴァーとともに住んでいたことがあるのだ。
ヴィダルは、いつ路地へと逃げだそうかと考えていた。あの路地はつながっている。あのウエントワース・ストリートに。たくさんの友だちと、ボールを蹴り合った道に。
と、そのときであった。母の足が止まった。
「着いたわ」
ドアの前に立つ母の後ろから、ヴィダルはその店をのぞき込んだ。
両側はガラス張りのショーウインドウである。真ん中に入口。左側には10個ほどの人形が並ぶ。すべて肩から上の人形だ。そのヘアスタイルはさまざまで、カラーも巻き方も長さも違う。
なんだこれは。かつらか……。
ヴィダルが見入っている間に、母はドアを開けた。
ミスター・コーエンは小柄なおじさんだった。顔にはやわらかな笑み。だが、向き合うとその存在感に圧倒されるような気持ちになる。背筋をピッと伸ばし、ていねいにイスを勧めてくれた。
座るなり、母は語り始める。ヴィダルはその隣で、うつむいている。母は、これでもかというほどにヴィダルのことを自慢した。このコがどんなに賢いか。どんなに我慢づよいか。どんなにステキな未来を約束されているか。聞いているヴィダルは恥ずかしくなる。
ミスター・コーエンは、母の話に辛抱強く耳を傾けている。にこやかに。時折、大きくうなずきながら。やがてゆっくりと右手を持ち上げて、ミスター・コーエンは母の話を止めた。
「サスーンさん。お話はよくわかりましたよ。いいでしょう。来ていただきましょう」
えっ。ヴィダルは顔を上げた。隣の母は大喜びだ。
「で、サスーンさん。ヴィダルくんは見習いとなります。どんなに覚えがよくて、才能に恵まれていたとしても、トレーニング期間は最低でも2年はかかります。さらに、本当にうまくなるにはその何倍もの時間が必要です」
「ええ、それはもうわかっておりますわ、ミスター・コーエン。ぜひこのコを鍛えてやってくださいませ」
マジか。
ヴィダルは狼狽した。ぼくは本当に美容師になるのか。
「わかりました。鍛えましょう。で、サスーンさん、私たちは見習いを一人前の美容師に育てるのに100ギニーいただいてます。そのことはご存知ですよね」
ひゃ、ひゃくギニー。ヴィダルは驚いた。見たこともない大金だ。その金額を聞いた瞬間、母の身体が固まった。
よしっ、この話は壊れる。ウチに100ギニーなんて大金、あるはずがない。
ヴィダルは心の中でガッツポーズ。母はイスから崩れ落ちそうになる。ヴィダルは母の腕をとり、しっかりと支えた。
沈黙の時間が過ぎていく。
母は大きく深呼吸をすると、ようやく言葉を絞り出した。
「ミスター・コーエン。ごめんなさい。私たちには100ギニーは払えません」
おそらく、こんなやりとりは今まで何度もあったのだろう。ミスター・コーエンは気にすることなく、それまでと同じ笑顔で立ち上がる。ヴィダルも母を支えながら立ち上がった。
「ありがとうございました」
ヴィダルはミスター・コーエンと握手を交わした。顔には満面の笑み。一方、母は顔面蒼白である。
(あの夢のお告げが、なかったことになっていく。あんなにドキドキ、わくわくした日々。ヴィダリコが美容師として脚光を浴びる未来が、消えていく)
ヴィダルはまっすぐにドアへと向かい、母のためにドアを開けた。母は、足を前に出すのがやっとという状態だ。母を待つ間、ヴィダルはもう一度、帽子を取って、ミスター・コーエンに向かって深々と頭を下げた。
ドアを開けたまま、まず母をエスコートして外へと送り出す。そのあとでヴィダルはもう一度、頭を下げてから通りへと抜け出した。ドアをゆっくりと閉めながら、ヴィダルは飛び上がりたい心境になっていた。
よしっ。これで『チェルシー』の、エース・ストライカーになる道が復活だ。
ヴィダルは傷心の母を支えながら、バス停に向かって一歩を踏み出した。
と、そのときである。
今、出てきたばかりのドアが開く。
「ちょっと待って」
ヴィダルが振り返ると、そこにはミスター・コーエン。
「キミはどうやらとてもいいマナーを身につけている。礼儀正しいし、感謝の気持ちも伝えられる。最近の14歳にはめずらしい美徳を備えている。だから今度の月曜日からスタートだ。100ギニーのことは忘れてもらってかまわないよ」
ミスター・コーエンは胸を張り、母を見つめる。その表情は、まるで人類史最高の善行をしたかのようだ。
打ちひしがれていた母の表情が一変する。笑顔が戻るどころか、母は泣き出してしまうのだ。
ヴィダルの表情も一変する。ショックのあまり、ぽかんと口を開けたまま呆然としてしまう。
気がつくと、いつの間にか母の演説が再び始まっていた。このコがどんなに賢いか。どんなに我慢づよいか。どんなにステキな未来を約束されているか。
「あぁ、ミスター・コーエン、本当にありがとうございます。あなたはすばらしい決断をされました。この決断はきっと、未来の世の中を変えることでしょう」
その隣で、ヴィダルの気持ちは再び奈落の底に落ちていく。マジか。このぼくが、レディたちのための美容師の見習いになるってか。フットボールの仲間たちに、どうやって説明しろっていうんダ。
ようやく、母の“演説”が終わった。
(ぼくの若き、雄々しいアスリートとしての未来は、ママの夢やら願望とかによって粉々に打ち砕かれてしまった)
帰宅してから数日間、ヴィダルの気持ちは落ちに落ちた。母は、そんなヴィダルの気持ちを理解していた。だが、やさしい言葉はかけなかった。
母には信念があった。このコは絶対に美容師として成功する。
月曜日がやってきた。
ヴィダルはバスに乗り、ホワイトチャペル・ロードへと向かった。
午前8時30分。『アドルフ・コーエン』のサロンに到着。
ヴィダル・サスーンの、美容師としての第一歩がこうして始まるのである。
つづく
☆参考文献
『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal』PAN BOOKS
DVD『ヴィダル・サスーン』角川書店