1960年当時、日本人は自由に海外旅行ができなかった。国が認めていなかったのだ。仕事のための渡航であっても、旅行代理店を介して逐一認可を取らなくてはならない。しかも外貨の持ち出し制限がある。日本円を外国通貨に換えて持ち出せる金額は2千円まで。それが2万円に増額されたのが1960年だった。1米ドルは360円だったため、増額されたとはいえ海外に持ち出せたのは約56ドルに過ぎない。
それでも、各国の航空会社は“日本”という舞台で走り出した。初めてニューヨークと東京を結んだのは米国のノースウエスト航空。1947年のことだった。その4年後、1951年に設立された日本航空も、1954年に東京〜サンフランシスコ線(中間寄港地2カ所)の運航を開始。BOAC(英国海外航空)も、ロンドン〜東京線(中間寄港地7 カ所)を運航していた。
競争が始まった。航空会社は、次々と開業する旅行代理店とコンタクトをとり、自社の航路を売り込む。いかに早く目的地まで到達できるか。あるいはいかに安く行けるか。それぞれの特長を盛り込みながら航路と料金を設定。旅行代理店に取り扱ってもらえるよう、働きかけるのである。
大野は勉強をつづけていた。海外初体験となった香港研修は2泊3日。いったん日本に戻り、今度はロンドン本社研修である。期間は5週間。
宿舎に指定されたマウントロイヤルホテルに着くと、大野はすぐにフロントに電話し、電話交換手にモーニングコールの依頼をした。もちろん英語で。
「これから5週間、毎朝5時にコールしてもらいたいのですが」
「毎朝5時、ですか。かしこまりました、ミスター・オオノ。でもひとつ、聞いてもいいですか」
「もちろんです。なんでしょう」
「どうして毎朝5時に起きる必要があるのですか」
「あぁ、そうですね。早いですよね。じつは私、BOACの社員でしてここに研修に来ているんです。私は英語圏ではなく、日本から来ています。だから人の2倍も3倍も勉強しないと試験には受からないのです」
「オーケー、ミスター・オオノ。よくわかりました。それでは私が明日から責任をもってあなたを毎朝5時に起こしてあげます。だから研修、がんばってくださいね」
以来、その交換手は毎朝5時きっかりにコールしてくれた。
「おはようございます。ミスター・オオノ。お目覚めですか?」
彼女が非番のときも、交替員にちゃんと言い伝えてくれていて、大野の部屋の電話は朝5時きっかりに鳴り出すのだった。
大野は毎朝、予習をして研修に臨んだ。もちろん前夜はその日の復習である。その結果、試験はすべて合格。
最終日の朝、いつものように5時のコールで起きた大野は、交換手にこれまでのお礼を述べた。会ったこともなく、名前も知らない交換手は試験の結果を聞いてわがことのように喜んでくれた。
「ミスター・オオノ。あなたはとってもがんばりました。おめでとうございます。またいつか」
「ほんとうに5週間ありがとうございました。またいつか」
大野は努力した。だれよりも努力した。
[オレはここで出世する。だれよりも稼いでみせる]
ところがどんなにがんばっても、どんなに業績を上げても、大野の給料は変わらなかった。
当時、待遇が良かったのは日本航空である。政府主導のもと、半官半民で設立された日本航空は、内部に強力な労働組合を抱えていた。
もともと海外の航空会社から経験者を集めるかたちで組織をつくってきた日本航空は、好待遇でスタッフを迎えていた。同時に労働組合が次々と待遇改善要求を会社に突きつけ、ストライキも辞さない強硬手段で改善を勝ち取っていたのである。
その日本航空には、BOACからも経験者が次々と流れていった。大野が尊敬し、親しくしてもらっていた先輩社員も転出していく。その姿を見るたびに大野は憤りを隠せなくなっていった。
「我が社の待遇が改善されない限り、これからも日航に人が流れていく。BOACはまるで日航の社員養成機関ではないか。それでいいのか」
いつの間にか社内の同僚たちにそう説くようになっていく。やがて大野はBOAC労働組合に参加。それは自然の流れだった。
BOAC労働組合は、日航やノースウエスト、パンアメリカン航空等の労組と連携して会社への要求を開始した。たとえばボーナスである。
日本航空の社員は、ボーナスを年間4カ月分もらっていた。しかしBOACは1カ月分である。それを日航同様に4カ月分にしてほしい。それが最初の要求だった。
外国の航空会社に勤める日本人社員の待遇は、けっして良くはなかった。しかし自国から派遣されているスタッフは好待遇なのだ。給料だけではなかった。休日の数も休暇も、すべてが違っていた。
「われわれは同じ仕事をしている。なのにこれだけ待遇が違うのはおかしい。同じにしてほしい」
外国の航空会社で、労組が強かったのはパンアメリカンとノースウエストだった。ノースウエストの労組は、要求と同時にストライキに入った。パンアメリカン航空もストライキに突入した。いちばん待遇が良いはずの日本航空も、すでにストライキに入っている。さて、BOACはどうする。
BOAC労組の大勢はスト突入であった。だが、そこで大野が意外な行動に出る。もちろん大野自身もストライキ突入を覚悟していた。頭には日の丸の鉢巻きである。しかし、大野は言ったのだ。
「会社側に団体交渉を求めよう。ストライキはその結果次第だ」
大野は考えていた。
[われわれはイデオロギーで戦っているのではない。共産主義革命を起こしたいわけでもない。待遇改善だ。自分たちの将来のために、これから入社してくる人たちのために、労働条件を改善したいだけだ。まずはボーナス。日航と同様、年2回2カ月分ずつ計4カ月分を勝ち獲る。それから退職金。これがゼロでは安心して働けない。それからもうひとつ。日本人を認めろ。外国人上司の意識を変えてくれ。われわれは日本人の権利を守りたい。もう戦争は終わったのだ。占領も終わった。日本人をいつまでもあごの先で使うな]
大野の提案は労組を動かした。ストライキに訴えず、まずは団体交渉に臨む。その提案を、BOAC経営陣は受け入れた。
交渉の前面に出るのは、言い出しっぺの大野だった。大野はBOAC労働組合の書記長に選出され、会社側との交渉を委ねられたのである。
団体交渉当日。会議室のテーブルに労組側の7人が並ぶ。中央に座ったのは大野だ。その向かい側に会社側のメンバー。大野の対面にいるのはミスター・ベイカーだった。団体交渉のために英国本社から飛んできた人事担当取締役である。そのとなりに日本支社長のゲイン。さらには日本人の営業部長・掛田。
掛田の姿を見て、大野は身構えた。
掛田とは何度かぶつかっていた。殴られそうになったこともある。もし殴ってきたら、殴り返してやる。大野はそう思っていた。
きっかけはゴルフだった。
次々と設立される旅行代理店を取り込むために、航空会社はさまざまな接待攻勢を仕掛けた。そのひとつがゴルフだった。
BOACでも営業部が主体となってゴルフが流行した。その先頭に立っていたのが掛田だった。
ある日、掛田は大野をゴルフに誘った。
大野は当時、旅客部の社員である。営業部のように接待が必要な部署ではなかった。ただ、大野はゴルフが嫌いではなかった。ゴルフクラブのセットも持っている。ロンドン研修の際、香港人の同僚・チャンに誘われて、ゴルフを教わっていたのだ。そのとき、チャンはこう言ったのだった。
「オオノ、おまえゴルフを知らないなんてBOACの社員じゃないぞ」
カチンときた。そうか。だったらやってやろうじゃないか。
大野はチャンと一緒にコースに出た。ロンドン郊外のゴルフコース。日曜日。みんなのんびりとゴルフを楽しんでいた。
5週間の研修中、それが唯一の息抜きだった。大野は毎週日曜日になると、チャンと一緒にコースに出た。その経験が、大野をゴルフ好きにしたのだった。
さて、掛田である。営業部の社員と一緒に大野を誘った掛田は、ゴルフコースに出るとこう言ったのだ。
「今日は一打負けでチョコレート一枚な」
チョコレート……?
大野には意味がわからなかった。
営業部の社員は「えーっ」「一打で一枚ですかぁ」とか言って顔をしかめている。
「なんですか、チョコレートって」
大野は聞いた。
「ん?」
掛田はニヤニヤしている。営業社員に目配せすると、その社員が大野の耳に顔を近づけて囁いた。
「千円だよ。一枚千円」
それでも大野は意味がわからなかった。ぽかんとしていると、掛田が言った。
「一打負けたら千円払う。それが今夜の食事代になるってわけだ」
賭けゴルフである。大野は猛烈に腹が立った。
「なんですか、それ。ゴルフってそんなものですか。そんな考えでやるものですか。ゴルフはスポーツですよ。楽しむためにやるものです。スポーツに賭け事なんて、とんでもない」
「はぁ?」
掛田は大野をにらみつけた。
「おまえな、青いこと言ってんじゃねぇよ。俺ら営業はな、そうやってお客さんをつかまえるんだ。勝てるのにわざと負けてな。チョコレート、払ってな。な、おまえら」
掛田は営業社員に向かって言った。
「はいっ」
営業社員は短く答えた。
結局、その日のゴルフは“チョコレート”が飛び交った。大野の負けは8千円に達した。それもなんとか減らしてもらった結果だった。
「もう二度とゴルフはやりませんから。誘わないでください」
その日から、掛田との関係はこじれていた。だが、同じ部署ではないことだけが救いだった。
ところが大野に英国からの辞令が届く。営業部への異動命令だった。
[イヤだなぁ]
営業部のフロアへ向かいながら大野は悶々としていた。直属の上司が掛田になるのだ。あいさつに行かなくてはならない。
営業部のフロアに入っていくと、掛田が大声で迎えた。
「おっ、来たな大野。ビシビシ鍛えるから、覚悟しとけよ」
「よろしくお願いします」
「で、おまえ、ゴルフはどうする?」
「ゴルフはしません。留守番役になります。だってみなさん、平日もゴルフ接待されてますよね。だれかが会社にいないといけませんから」
「おまえ、アホか。そんなことが許されると思うか」
「でもみなさん、交代で留守番されていますよね。それを私に固定していただければ、と」
掛田は「ふん」と言って、少し考えた。
[ゴルフはやりたい。だれもがやりたい。交代で留守番なんか、やりたいヤツはいない。だったらここは大野に任せるか]
「まぁ、そうだな。おまえの腕前じゃあ、お客さんも喜ばないからな」
ゴルフからは解放されたが、掛田とは何度もぶつかった。掛田は日々、さまざまないやがらせを仕掛けてくるのだ。大野は耐えた。時には歯を食いしばって耐えた。その掛田が、団体交渉のテープルの向こう側にいる。
ミスター・ベイカーが口を開いた。
「今回の交渉だけれど、英語でやる」
大野は即座に聞いた。
「なぜです」
「なぜ? 君たちは英国の航空会社に雇われている。普段も英語で仕事をしているはずだ。だから何の問題もないだろう。交渉は英語でやる」
「とんでもない!」
大野は声の音量を2段階くらい上げた。
「逆に言いますが、あなたたちはどこでビジネスをやってるんですか。日本でしょう。ここは日本だ。日本の公用語は日本語だ。だからわれわれは日本語で団体交渉をやる」
「いや、英語だ」
「もし日本語でやれないのだったら、交渉はできない。すぐにストに入る」
すべて、大野は英語で話していた。英語で最後通牒を突きつけた。
ミスター・ベイカーは困った。
[この大野ってヤツは何者だ。ちゃんと英語を話しているじゃないか。交渉だってすでにやってるじゃないか。しかも堂々と、だ。なのになぜ日本語にこだわるんだ]
しばらく考えて、ベイカーは言った。
「オーケー。わかった、ミスター・オオノ。では通訳をつけよう。団体交渉というのは経営側と労働者が接点をもって話し合うことだ。だからどうしても言葉ははっきりとしなければならない。大事な約束事もそのなかに入ってくるからね。ただ、そうは言っても外部の通訳には頼めないからな。よし、ミスター・カケタ、君が通訳をやってくれ」
「えっ」
驚いたのは掛田である。オレかよ、って顔をしている。
[通訳なんかできるわけないだろう。オレは英語が苦手なんだ。いまの大野とベイカーのやりとりだって、一部分しかわからなかったのに]
「どうだい、ミスター・オオノ。受け入れてくれるかな」
掛田を無視してベイカーが言うと、大野は答えた。
「イエッサー」
そう言って、大野は掛田を見つめた。掛田は大野の表情を見て、悟った。
[コイツ、やりやがったな]
大野の頬は今にも笑い出してしまいそうなほど、ゆるんでいた。
つづく
<第50話の予告>
交渉の冒頭で、大野は最初の要求を突きつける。それは「交渉の場にテープレコーダーを入れること」。羽田の現場で働くたくさんの組合員にも、交渉の過程をすべて公開するためだった。ところが、英国からやってきた人事担当役員のベイカーは拒否する。団体交渉が本格的に始まった。
☆参考文献
『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS
『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店
『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房
『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス
『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書
『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書
『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書
『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫
『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書
『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房
『美の構成学』三井英樹著 中公新書
『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房
『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版
『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術
『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所
『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会
『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書
『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会
『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株式会社
『MARY QUANT』マリー・クワント著 野沢佳織訳 晶文社
『スウィンギング・シックスティーズ』ブルース・インターアクションズ刊
『ザ・ストリートスタイル』高村是州著 グラフィック社刊