美容師小説

美容師小説

-­第38話-­【1954年 ロンドン】 プレゼンテーションに勝利せよ

 残された“たったひとつの道”。それは自分のサロンを持つことだった。

 入口のドアに、自分の名前を描いたサロンをつくること。

 『ヴィダル・サスーン・サロン』。

 しかし、どうしたらそれが実現できるのか。

 

 お金がなかった。

 ヴィダルは『デュマス』でも、『ハウス・オブ・レイモンド』でも、かなりの報酬を得ていた。だが、貯金はほとんどなかった。報酬のすべては自分と家族の生活に消えていた。継父のネイサンは心臓を患って働けなくなっていた。弟のアイヴァーは公認会計士をめざして勉強中。ヴィダルは一家の大黒柱として、みんなの生活をひとりで支えていたのだった。

 

 さて、どうする。

 

 『ハウス・オブ・レイモンド』時代からの知り合いに、リラという女性がいた。リラは、お客としてヴィダルの前に座るたびに、こう質問するのだった。

 「で、いつサロンをオープンするの?」

 その言葉は、ヴィダルのこころに少しずつ独立心を芽生えさせてきた。“自分のサロンを持つ”という夢のようなイメージが、リラの言葉によって少しずつかたちを成していく。

 そこでヴィダルは、まっさきにリラに電話をした。そして最初にこう言ったのである。

 「今だ」<Just Now !>

 

 リラはその一言で、ヴィダルの決断を理解した。

 「ホント? ついに? おめでとう!」

 「うん。だけど問題がある。お金がないんだ」

 ヴィダルは率直に言った。

 「わかってるわ。それもずっと考えてきたことよ。まずは私の夫と、夫の兄に会ってもらうわ。ディナーをアレンジするから、そこでプレゼンテーションするのよ」

 リラの夫は、ファッション関係の会社を経営していた。夫の兄、つまり義兄は不動産開発会社を経営している。そのふたりに“投資”を要請しなさい、と言うのである。

 

 

 ディナーは翌週の週末にセットされた。ヴィダルはディナーの数日前に、リラを誘ってサロンの候補地を案内した。

 

 ボンド・ストリート。それは『デュマス』や『ハウス・オブ・レイモンド』のあるアルバマール・ストリートと並行して走る1本隣りの道だった。両側に4〜6階建てのビルがびっしりと建ち並ぶ新興のストリート。だが後にニューヨークの5番街、パリのフォーブル・サントノーレ、ロサンゼルスのロデオ・ドライブ等と並び称される高級ファッション・ストリートとなる。その108番地に、間口の狭いちいさなビルがあった。空きスペースは3階。広さは700スクエア・フィート(※)。

 

 リラは、その物件を見た瞬間、感嘆の声をあげた。

 「すばらしいわ。ここならだいじょうぶ。絶対に成功するわよ」

 ヴィダルも直観していた。ここなら成功できる。ただし、資金があればの話だが。

 

 

 週末がやってきた。運命のディナーが始まった。初対面の紳士たちと、ヴィタルとの間をうまく取り持ってくれたのはリラだ。

 

 ヴィダルは、プレゼンテーションを始めた。

 「戦後、9年になりました。その間、ロンドンは急速に復興を遂げてきました。そのエンジンのひとつが、建築です」

 そう語り始めた瞬間、まず“義兄”の眉が上がった。

 「ぼくはパリで、サヴォア邸を見てきました。そうです。ル・コルビュジエの作品です。森の中に浮いているような邸宅の斬新な姿を見て、衝撃を受けました。建築って、こんなに自由なのか、と」

 “義兄”は真剣な表情で、ヴィダルの話に耳を傾けている。

 「建築は、世の中を変えています。日々、確実に変えています。どんなに興味のない人でも、街の姿が変わっていくことは実感できる。つまり建築は建物だけでなく、都市そのものをデザインしているのです」

 さらにヴィダルはつづけた。

 「ご存知のようにモダニズムというトレンドが、建築の世界にあたらしい風を吹き込んでいます。建築家たちは競い合って、シンプルで、しかし芸術的な建物を設計し、街の姿を、人々の意識を変えつつあるのです」

 “義兄”は目の前の料理に手をつけることなく、背もたれに身体を預けたままヴィダルの話を聞いている。もう眉は下りていた。が、両目には光が宿っていた。

 

 「同じように世の中を変えつつあるのが、ファッションです」

 今度は“夫”の眉が上がった。

 「ココ・シャネルの革命は、女性を社会へと解放しました」

 ヴィダルはひと言ずつ、言葉を句切りながらゆっくりと話した。

 「クリスチャン・ディオールは、相変わらずコルセットで女性の身体を拘束しているようですが……、あ、みなさんがディオールのファンだったら失礼」

 “夫”はリラを見て微笑んだ。もちろん、リラのファッションはシャネルのスーツ。ディオールではない。

 「ファッションも建築も、ぼくに多くのインスピレーションを与えてくれます。さて、みなさんはぼくが美容師だと知っている。しかも、自分のサロンを持ちたがっている美容師だ、と。そうでしょう?」

 リラも含めて3人がうなずいた。

 「ぼくがなぜ、自分のサロンを持ちたいか。それは、世の中を変えたいからなんです。建築も、ファッションも、あたらしい担い手が次々と登場して世界を変えています。戦後の世の中は、戦前とはまったく違う色を、かたちをぼくたちに見せている。だけど唯一、変わらないがヘアスタイルです。相変わらずパーマをかけて、セットをして、スプレーで固める。リラは、その呪縛から解放されたがっていたんです」

 “義兄”が、リラのヘアスタイルを改めて見た。リラは、被っていたシャネルのクローシュ・ハットを脱いだ。現れたのはストレートのショートヘアだ。

 「このヘアスタイルは、1920年代にフラッパーと呼ばれた前衛女性のヘアスタイルをアレンジしたものです。当時は第1次世界大戦の直後で、女性たちが一斉に社会進出しました。というか、進出せざるを得なかった。おびただしい数の男性が戦争で亡くなり、また傷ついたのですから」

 事実、戦後の労働力不足が、女性の社会進出のきっかけとなっていた。

 「ご存知のようにアメリカでは1920年に女性参政権が認められています。わが英国では、1928年まで制限されていましたが……。とにかくこの女性の社会進出と同時に、1920年代のヨーロッパではファッションとヘアスタイルに革命が起こりかけたのです。家庭に縛り付けられてきた女性たちを、社会に解放するという革命です。ただし、それは世界恐慌と、第2次世界大戦の勃発によってストップしました」

 “義兄”も“夫”も、身を乗り出していた。美容師の話が、こんなところまで拡がるとは。

 

 じつはふたりとも、このディナーには気が進まなかった。だが、リラのたっての願いを断れなかった。それが本音だ。しかし、この美容師はどうだ。美容の話ではなく、建築やファッションの歴史を、ごく当たり前のように語り尽くしている。しかも「ヘアスタイルで世の中を変えたい」だと?

 

 [おもしろいじゃないか]

 

 「改めて言います。いまは戦後9年です。第1次世界大戦終結の直後、1920年代。いわゆる“狂騒の20年代”に何が起こったか。それは女性の解放です。家庭からの解放。コルセットからの解放。ヘアセットからの解放。同じことが、これから再び世界中で始まります。そのエンジンに、ぼくはなりたい。ヘアスタイルに革命を起こすことで……」

 「ヒュー」

 口笛が鳴った。

 「ミスター・サスーン。あなたの話はおもしろい。だが、ひとつだけ質問がある」

 そう言って“夫”は人差し指を立てた。

 「ヘアスタイルの革命って、具体的にどうやって成し遂げるのかな?」

 ヴィダルは即答した。

 「まずは旧来の、コンサヴァティヴ(保守的)なヘアスタイルをすべて捨てることから始めます。ぼくが確立したいのはヘアスタイルのモダニズム。だから私のサロンでは、コンサヴァティヴなヘアスタイルは提供しません」

 「なるほど。だとすれば、どうだろう。君のサロンにやってくるお客さんの数は、決して多くは望めないのではないかな」

 「いいえ。そうは思いません。たとえばリラは、このヘアスタイルをきっと気に入ってくれています」

 今度は“夫”が即答した。

 「もちろん。リラだけでなく、私も気に入っているよ。だけどロンドンのストリートは、リラみたいな女性ばかりが歩いているわけではない」

 「おっしゃるとおりです。だから革命なんです。世の中を変えるんです。ココ・シャネルは言いました。“ファッションは着飾るものではない。着るものを選ぶということは、自分の生き方を選ぶことだ”とね。ぼくはその言葉のなかの“ファッション”を、“ヘアスタイル”に。“着るもの”を、“サロン”に置き替えるんです」

 「ほぅ。“サロンを選ぶということは、自分の生き方を選ぶこと”か」

 「そういう時代がそこまで来ているんです。女性たちは、ぼくのサロンを待っているんです」

 ヴィダルは不思議な感覚に包まれていた。言葉が、自分の意志とは無関係にすべり出てくる。それまで、かたちを成さないイメージとして頭の中でうごめいていたものが、次々と明確な言葉となって発せられていく。

 [そうか。ぼくはこんなことを考えていたんだ]

 言葉にすることで、頭のなかが整理される。人に向かって語ることで、夢のようなイメージも明らかな像を結ぶ。

 プレゼンはふたりの紳士だけでなく、ヴィダル自身にも向けられていたのだ。

 

 「ということは、君は女性の髪を切る、と?」

 “義兄”がようやく口を挟んできた。

 「切ります」

 断言した。

 「うーん。それはどうかな。ぼくはリラのヘアスタイルも好きだけど、クラシックなセットスタイルも悪くないと思うよ」

 「はい。もちろんです。私もロンドン中の、全女性の髪を切るつもりはありません。私は美容師です。つくるのはヘアスタイルです。服のように大量生産ができないものです。私が1日に対応できるお客は多くてもせいぜい20人。週に6日、切ったとして120人。月に480人」

 「ひとりあたりの単価はどのくらいになる?」

 “義兄”が聞いてきた。

 「カット料金は16シリング(※)と考えています。スタイリストは16シリング。ぼくを指名する場合は1ポンド」

 「スタイリストは何人でスタートするつもりだい?」

 「ぼくを入れて3人から、4人です」

 「3人として、週に360人。16シリングで240人。1ポンドが120人だとすると、週の売上げは……」

 “義兄”が計算を始めようとすると、代わりに“夫”が答えた。

 「312ポンドだ」

 「そうです」

 「月に1248ポンドか。なるほど。悪くない」

 “義兄”が言った。

 「だな」

 “夫”も同意した。

 「もちろん、その1店舗で終わりではありません。将来は2店舗、3店舗と増やしていきます」

 「店舗数は、どのくらいをめざしているのかな」

 「ロンドンで10店舗。ロンドン以外の英国全体で30店舗。ヨーロッパで30店舗。アメリカに30店舗」

 「おいおい、ちょっと待ってくれ」

 “義兄”が笑いながら言った。

 「世の中を変えるって、ほんとうに世界を変えるつもりなのかい?」

 「はい」

 迷いなく、ヴィダルは即答した。

 「合計100店舗か。なんとも、すごい話になったな」

 “夫”も苦笑しながら言った。

 

 だがそのとき、ヴィダルには隠していることがあった。

 

 そもそもヴィダルが成し遂げたい『革命』は、旧来のヘアスタイルを否定することだ。ということは、既存のスタイリストの技術は通用しない。だからヴィダルは計画していたのだ。スタイリストは雇わない。経験の少ない若いアシスタントだけを募集して、ゼロから育てる。つまりアシスタントがスタイリストに育つまでの間、稼げるのはヴィダルひとりとなる。

 それにもうひとつ。お客もまたゼロからのスタートだということ。『ハウス・オブ・レイモンド』や『デュマス』時代のお客には、独立することを告げていない。唯一の例外がリラだった。

 このふたつの事実を、ヴィダルは隠した。隠し通した。

 

 「ま、世界展開は置いといて、最初のサロンの初期投資はどのくらいになる?」

 “夫”が聞いてきた。

 「サロンの改装費が3000ポンドから4000ポンド。家賃が週13ポンドで、保証金が250ポンド。その他材料費を入れると、ざっと5000ポンドというところです」

 「オッケー」

 “義兄”が言った。

 「ぼくも乗るよ」

 “夫”も言った。

 

 勝った。

 こうしてヴィダルは1号店の開店資金を獲得したのである。

 

 

 つづいてヴィダルは内装のプランに取りかかった。インテリアデザイナーは不動産開発会社を経営している“義兄”が紹介してくれた。

 リチャード・ヘンリー。新進のインテリアデザイナーだった。それまで、主に高級住宅のインテリアを担当していたが、今後は店舗にもビジネスを拡げたいと目論む若きチャレンジャー。

 ヴィダルは、その“チャレンジャー”にそれまでのサロンとはまったく異なるデザインを要望した。

 

 美容室のインテリアは、だいたい似たようなものだった。ピンクのカーテン。花柄の椅子。とにかく女性が好む(と、思い込んでいる)デザインばかりだった。

 ところがヴィダルの要望は、それらをすべて否定する。

 「ベースはブラック。そこにあしらうとしたらシルバーかホワイト。それ以外の色は使わない。さらに余分なものはすべて取り除き、シンプルで飾りのないシャープな内装」

 リチャードは、ヴィダルのイメージを一瞬にして共有した。そして描いたデザインは、美容室には絶対に見えない画期的なものとなった。

 デザイン画を見た瞬間、ヴィダルは口笛を吹いた。イメージ通り、というよりイメージ以上のデザインだったのだ。

 「まさしく、これは革命だ」

 ヴィダルはひとり、つぶやいた。

 

 内装工事が始まった。ヴィダルは毎日のようにボンド・ストリートを訪れ、108番地のビルの前に立った。

 3階を見上げると、カギを壊して中に入りたいという衝動にこころが突き動かされる。だが、内装工事が終わるのは3カ月後。

 「待てない」

 ヴィダルは毎日、そうつぶやくのだった。

 [今すぐ階段を駆け上がり、中に入ってだれかの髪をカットしたい]

 コートのポケットのなか。ヴィダルの右手にはつねに、ハサミがあった。あの、刃渡り4.5インチのちいさなハサミだった。

 

 

 3カ月後。月曜日の早朝。

 New Bond Street 108番地に向かうヴィダルの足は、どんどん速くなっていく。心臓の鼓動も速くなる。

 ビルの3階を見上げた。窓にはヴィダルのつくったヘアスタイル写真が2枚、大きく引き伸ばされてディスプレイされている。ショートで、ストレートで、シャープなヘアスタイル。その下には『VIDAL SASSOON』というロゴタイプ。

 ついに、ヴィダルは自分のサロンを持った。ヴィダルはカギを壊すことなく、堂々とサロン内に入ることができた。一番乗りだった。

 

つづく

 

 

 

 

※16シリング

1547年〜1971年まで使われた英国の通貨単位。

20シリング=1ポンド。

1954年の為替レートは、1ポンド=1004円40銭。

また現在の消費者物価は当時の約6倍なので、

貨幣価値は1000円が約6000円。

つまり当時の1ポンドは、現在の約6000円。

16シリングは約4800円の価値となる。

 

 

※700スクエア・フィート

700sqf=65.1㎡=19.7坪。

 

 

 


 

 

<第39話の予告>

オープン初日の『VIDAL SASSOON』。お客はわずか数人だった。ヴィダルは知り合いを総動員し、クチコミでの集客を開始する。窮地を救ったのは、リラ。そして女優のタマゴ・リリアン。さらに、続々と集まってきたスタッフたち。サロンがなんとか軌道に乗ったのは、オープンから3カ月後のことだった。

 

 


 

 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術

『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所

『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会

『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書

『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会

『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株式会社

 

  ライフマガジンの記事をもっと見る >>