美容師小説

美容師小説

-第31話-­【1951年 ロンドン】 コンテスト! コンテスト! コンテスト!    

 コンテストへの挑戦が始まった。

 ヴィダルはシルヴィオの勧めるままに、モデルを見つけてはコンテストの会場へと出かけていった。

 会場にはいつもたくさんの美容師が集い、熱気を放っている。そのなかでヴィダルは、モデルの髪を上げ、まとめ、巻いてはねじり、スプレーを噴射した。

 

 勝てなかった。入賞すらできない。何度チャレンジしてもまったく歯が立たないのだ。

 頭のなかにイメージはあった。モデルの骨格も、黄金比も見えていた。だけどつくりたいイメージを、実物の頭で表現できなかった。

 

 落胆したヴィダルは、シルヴィオを訪ねる。シルヴィオはやさしい笑顔で迎えてくれる。

 「ヴィダル、夢をつかむのは君の手だ。頭じゃない。手、なんだ。いくらいいイメージができたとしても、それをかたちにするのは君の手だ。自分の手を道具にすること。意のままに、かんぺきに使いこなせる道具にすること。そのためには、動かすことだ。手を使うこと。使いつづけること。つまり……」

 わかっていた。じゅうぶんに、わかっていた。

 「練習です。わかっているんです。だけど、もどかしくて。この、ぼくの手はちゃんと動いてくれるんでしょうか。練習すれば、イメージをかたちにできるんでしょうか。できるようになるんでしょうか」

 「信じるんだ。ヴィダル。自分を信じてあげなさい。繰り返すこと。挑みつづけること。夢をつかむ道はたったひとつ。練習を積み重ねることしかない。たとえ何年かかろうと、やりつづけるしかない。途中であきらめてはいけない。投げ出してはいけない。自分を疑ってはいけない。やりつづければ必ずいい結果にたどりつく。必ず、だ」

 

 シルヴィオはいつも励ましてくれた。ヴィダルは[ありがたい]と感謝していた。しかし、それでもヴィダルは自分を信じられずにいた。

 

 [ほんとうにぼくはコンテストで優勝できるのだろうか]

 [ぼくは美容師として成功できるのだろうか]

 [それよりなによりぼくは美容師に向いているのだろうか]

 

 頭のなかではぐるぐると疑問の渦がまわっていた。

 

 

 感情の起伏が激しいことは自覚していた。気持ちは簡単に昂ぶったり、落ち込んだりする。ヴィダルはときどき自分をコントロールできなくなる。突然、叫び出したい衝動に襲われることもある。あるいは激しく落ち込んで、何もかも投げ出したくなったりする。

 ヴィダルのなかでは、今もマグマがうごめいていた。

 

 

 落ち込むヴィダルを支えたのは、友人たちだった。

 たとえばジェラード・オースチン。あるいはロバート・イーデル。

 ジェラードは、『ロメインズ』の同僚だった。探求と実験が深夜までつづくサロンで、活気とスリルあふれる日々を共に過ごす仲間である。

 一方、ロバートとはシルヴィオのサロンで知り合った。彼もまた週に一度、コンテストの技術を教わるためにやってくる“生徒”だった。

 同世代のふたりは、ヴィダルの気持ちがよくわかった。彼らもまた自分自身に何度も疑問を持ち、その疑問に打ち勝つために練習に没頭するチャレンジャーだったのだ。

 

 ヴィダルたちは、互いに励まし合いながら練習を重ねた。

 しかし結果はなかなか出なかった。

 

 

 シルヴィオのもとに通い始めて8カ月が経った。受講は30回を超えた。加えてサロンに戻っての練習の日々。それでもコンテストでは落選つづきだった。

 9カ月目のある日、ヴィダルはシルヴィオの目の前で、いつものように次のコンテストのためのヘアスタイルをつくっていた。

 その日は、なにかが違った。手が動く。イメージ通りに、動く。すいすいと動く。

 [なんだこれは]

 

 久しぶりの感覚だった。あの、コーエン先生のもとで修業した時代。先輩のダグに教わったシャンプー。手が、指が、勝手に動き出すような感覚。

 渾身の作品。出来映えもいい。自信作。

 シルヴィオもやさしい笑顔で見つめている。

 

 [次こそ、イケる]

 ヴィダルは手応えを感じていた。シルヴィオも言った。

 「悪くない。ようやく手が道具になってきたね」

 つづいてシルヴィオはこんなことを言うのだった。

 「ところでヴィダル、次のコンテストの審査員はだれだい?」

 ヴィダルはすぐには答えられず、実施要項が書かれた紙を持って来た。

 「えっと、審査員長はフランク・ブラスチェクです」

 「あぁ、そうか」

 そう言うと、シルヴィオはヴィダルの“作品”に触れた。

 「ヴィダル、気を悪くしないでくれよ」

 シルヴィオは髪のなかに両手の指を大胆に入れて、スタイルを崩し始めた。

 「えっ」

 言葉にならないヴィダルの声が、サロンに響いた。

 自信作が壊されていく。シルヴィオはかまわず、あたらしいヘアスタイルをつくっていく。

 最後にブラッシングを終えたとき、そこにはまったく別の“作品”ができあがっていた。

 「ヴィダル、フランクの好みはこのシルエットだ。サイドの流し方に特徴がある」

 

 [審査員の好み……]

 シルヴィオは教えた。評価されるのは純粋な“作品”ではない。評価には審査する人の好みが入る。つまりコンテストへの挑戦は審査員への挑戦でもある。逆にいえば、審査員の好みを知ることで成績を上げることができる。

 

 [ほんとうなのか]

 ヴィダルは半信半疑だった。しかし、やってみた。シルヴィオが直したヘアスタイル。その手順を反復する。さらにモデルに頼み込み、そのまま『ロメインズ』に戻って深夜まで練習をつづけた。

 

 

 『ローズボウル・コンテスト』の当日。ヴィダルは練習を重ねた“作品”をそのままつくった。すると結果は3位。初めての入賞だった。

 翌月は『イヴニング・スタイル・コンテスト』。このときもシルヴィオは、担当審査員の特徴に合わせたスタイルを教えてくれた。結果は2位。

 さらに『フェスティバル・オブ・ブリテン杯』。これは大規模なコンテストだった。ヴィダルは10人近い審査員のなかに、再びフランク・ブラスチェクの名前を発見。『ローズボウル・コンテスト』のときの“作品”に、アレンジを加えてチャレンジした。

 

 勝った。ついに勝った。

 ステージの上で渡された優勝トロフィーは、両手でしっかりと抱えなくてはならないほど大きかった。

 優勝者には、英国代表として国際大会への出場権が与えられる。ヴィダルはパリで行われたヨーロッパ大会に出場。3位に輝いた。

 快進撃はつづいた。再び国内コンテストに戻り、優勝。“ヴィダル・サスーン”の名は全英の美容師の間に浸透していった。

 

 評価されるのはうれしかった。ヴィダルはモデルの髪を上げ、巻き、ねじり、まとめた。もちろん最後はスプレーを噴射する。

 それは旧い美容の手法だった。ヴィダルが忌み嫌っていた技術だった。だが、ヴィダルはコンテストにチャレンジすることで、結果的にその技術を極めようとしていた。ほんとうは否定したい技術。だけどコンテストで勝つには、避けて通れない技術。

 それにヴィダルには見えていなかった。旧い手法に取って代わる、あたらしい技術。あたらしいヘアスタイル。あたらしいデザイン。そのイメージが、まったく湧かないのだ。

 自分は何をしようとしているのか。どんなデザインを求めているのか。どんな技術を探しているのか。

 わからなかった。

 

 『ロメインズ』に移って2年が経った。ヴィダルの心のなかに再び、さざ波がたっていた。あのコーエン先生のサロンを辞めたときと同じ感覚だ。

 [このままここにいていいのか。そろそろ別の場所に移って、さらに前進すべきではないのか。世の中にはもっとあたらしい技術があるはずだ。あたらしいアイデアを持つ人がいるはずだ]

 そう意識した瞬間、ヴィダルのスイッチは切り替わっていた。

 

 

 

 気になるサロンがあった。『デュマス』。代表者はフランク・ブラスチェク。ヴィダルが初めて優勝したコンテストの、審査員だった。

 『デュマス』は、“メイフェア”地区にある。しかもアルバマール通り。ヴィダルは懐かしい思いを胸一杯に抱えながら、その通りを歩いた。

 

 『ハウス・オブ・レイモンド』。

 7年前。ヴィダルが16歳のとき、採用を断られたサロンだ。理由はヴィダルの下町なまり。つまり“英語”だった。(第7話参照)

 

 『ハウス・オブ・レイモンド』は、当時よりもさらに人気サロンとなっていた。ミスター・レイモンドは、今や英国トップのヘアドレッサー。毎週金曜日の夜に放送されるテレビ番組を持ち、次から次へとステキなヘアスタイルをつくり出す。そして最後に、必ず髪飾りをつけるのだった。

 たとえばちいさなヘアピース。“ティージー・ウィージー”というそのヘアピースを、指でツイストしてヘアにくっつける。ほんのちょっとしたアクセントで、ヘアスタイルの印象はがらりと変わる。その様子をヴィダルは毎週、楽しみながら学んでいた。

 

 [いつか直接、レイモンドに学びたい]

 その気持ちは16歳のころから変わらなかった。だが今はまだ早い。レイモンドにチャレンジするのは自分のスタイルを見つけてからだ。自分がやりたいヘアデザインの方向を確立してからだ。レイモンドはそれまで、心の中に封印する。

 

 ヴィダルはアルバマール通りを歩いた。お客でにぎわう『ハウス・オブ・レイモンド』の前を通り過ぎた。

 『デュマス』は、さらに20ヤードほど先にあった。

 

 

 フランク・ブラスチェクは、コンテストで優勝したヴィダルのことを覚えていた。すぐに採用が決まり、握手を求められた。ヴィダルは跳び上がりたい気持ちをなんとか抑えていた。

 [ぼくはついに“メイフェア”に進出する。美容界の中心地で仕事ができる]

 

 

 

 あたらしい師、フランク・ブラスチェクはハサミを巧みに使う美容師だった。レザー、セニングシザーズ、シザーズ(※)。この3種類のツールを使い分けて髪をカットする。

 

 新鮮だった。

 フランクは、仕上がりのイメージを描いたうえで髪を切る。最初はセニングで髪の量を調節する。つづいてシザーズで、大まかなかたちをつくる。最後にレザーで毛先を削りながらかたちを整える。つまりフランクは、ハサミで毛量と長さを調節しながら、ヘアスタイルのベースをつくってしまうのだった。

 

 ヴィダルにとっては、あたらしい技術だった。再び、どん欲に吸収する日々が始まった。

 いつものようにヴィダルは真似る。フランクのカットを真似る。カットの手順をじっくりと見て、頭のなかに叩き込む。営業時間が終わるとモデルを見つけてきて、再現する。毛量を調節し、長さをそろえ、ベースをつくる。毎日、その繰り返しだ。

 

 練習量がセットからカットへと傾くと、ヴィダルは大きな問題に直面した。モデルの確保だ。

 シニヨンやブーファン(※)といったセットスタイルなら、同じモデルに何度でも頼める。ところがカットは、一度切ってしまうと使えなくなる。いくら気に入ったモデルと出会えたとしても、カットするには再び髪が伸びるのを待つしかないのだ。

 ヴィダルの頭の中は、デザインや技術に加えてモデルの発掘でもいっぱいになった。街を歩いても、通勤で汽車やバスに乗っても、視線はつねにモデルになってくれる女性を探しているのだった。

 

 そんなある日のこと。汽車で通勤していたヴィダルの視線は、ひとりの女性に釘付けになった。つり革につかまったヴィダルのとなりに、その女性は立っていた。

 こんな美しさは見たことがなかった。絶妙な角度ですべり落ちる顎のライン。優雅に輝く頬。ケタ外れに美しい瞳。高く澄ました鼻梁。きりっとした唇。ヘアドレッサーなら世界中の全員が、この女性のヘアを手がけたいと手を挙げるだろう。それほど完ぺきなルックスだった。

 

 自制なんかできなかった。気づいたときにはもう声をかけていた。

 「すみません。ぼくはヘアドレッサーです。ヴィダル・サスーンといいます。デュマスという、メイフェアのサロンで働いています」

 そう言ってヴィダルは、自分の名前の入ったデュマスの名刺をスーツの内ポケットから取り出した。

 「もしかして、女優さんですか」

 女性はきらきらと輝く美しい瞳を、ヴィダルのほうへ向けた。

 「いいえ。女優をめざしていますが、まだウエストエンドの舞台に立ったことはありませんわ」

 「あなたなら絶対にスターになれます。ただ、スターになるその日まで、ぼくのモデルになってくれませんか。あなたならすばらしいモデルになれる。絶対になれます。ぜひぼくと一緒にステージに立ってください」

 ヴィダルは口説いた。口説き通した。しかし、その美しい瞳はヴィダルから離れ、車窓を通してまっすぐに外の景色を見つめている。ヴィダルはその横顔に語りかけるしかなかった。

 「電話をください。この名刺にサロンの電話番号が書いてあります。デュマスです。デュマスのヴィダル・サスーンです」

 彼女は答えない。しかし名刺は受け取ってくれた。

 「電話をくださるときに、あなただとわかるようにお名前だけでも教えていただけませんか」

 ヴィダルは食い下がる。彼女は視線を車窓に向けたまま、美しい唇を動かした。

 「ヴェラです。ヴェラ・デイ」

 

 こんなことには慣れているのだろう。電話するかどうかなんか答えない。「考えてみます」とさえ言わない。それでもヴィダルは自分の降りる駅に着くまで、ヴェラを口説きつづけた。

 

 

 電話がかかってきたのは3日後のことだった。ヴィダルは興奮を抑えながらヴェラと話した。

 「サロンに来ませんか。女優をめざすためのヘアスタイルについて、お話ししましょう」

 ヴェラが『デュマス』にやってきた。サロン内に入ってきた瞬間、スタッフ全員の目が一斉にヴェラに向かった。

 ヴィタルは少し得意げに、ヴェラをエスコートしてボスのフランクに紹介した。フランクはヴェラを見つめると、すぐにその手をとって奥のオフィスへと連れて行く。ヴィダルもそのあとをついていくが、その目の前でドアはぴしゃりと閉められた。

 

 数分後、フランクはヴェラを伴ってオフィスから出てきた。

 「ヴィダル、ヴェラさんは私のモデルになってくれるそうだ」

 「えっ? どういうことですか」

 「そういうことだ。私はヴェラさんとコンテストにチャレンジする」

 「ちょっと待ってください。先生はもう審査員でしょう。コンテストはぼくらが出るものです。それよりなによりヴェラさんは、私が見つけてきたモデルさんですよ」

 「だけどな、ヴィダル。ヴェラさんのポテンシャルを最大限に生かす技術は私にしかない。それに女優をめざすためにも、つねにコンテストで上位にランクされることが重要だ。そうだろ?」

 「いや、ですからぼくがヴェラさんとコンテストで優勝をめざすんです」

 「優勝の可能性は、私のほうが高い。はるかに、な」

 終わりだった。話は、終わり。ヴェラはその唇の左端をほんの少し上げ、ほのかな微笑を浮かべている。

 その顔はやはり、美しかった。

つづく

 

 

 

※レザー、セニングシザーズ、シザーズ

『レザー』はかみそり。サスーンが世界の表舞台に登場する以前の美容は、レザーカットが主流だった。パーマやセットをするために髪を整える。それがレザーの役割だ。

『セニングシザーズ』は、毛量調節のためのハサミ。刃の部分はのこぎりのようにギザギザになっている。

『シザーズ』は、通常のハサミのこと。

 

※ブーファン

フランス語で「ふっくらとした」という意味。シニヨンは主に後頭部だが、ブーファンは側頭部の髪をふくらませたヘアスタイル。

 


 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal  Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

 

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