シルヴィオは紙の上に1本の直線を引いた。
そして左端にA、右端にBと書いた。つづいてAとBの中間点からやや右よりに点を打ち、Cと書き入れた。
「さて」と、シルヴィオは言った。
「これで線分ABは、点Cでふたつの部分に分けられた」
「AからBまでの長さは、AからCよりも長い。わかるね?」
ヴィダルは答えた。
「はい。わかります」
「ではAからCと、CからBはどっちが長い?」
「AからCです」
「そうだ。ではここからが本題だ。ACの長さとCBの長さの比が、ABとACの比と等しいとき」
そう言いながら、シルヴィオは書いた。
AC÷CB = AB÷AC
「線分ABは点Cで黄金比に切り分けられたことになるんだ」
…………。
ヴィダルにはまったく意味がわからなかった。
「すみません。わかりません」
ヴィダルが申し訳なさそうに言うと、シルヴィオは笑顔で答えた。
「ま、わからないよな。当然だ。私も最初はわからなかった。なんのことやらさっぱりだ。ただね、このシンプルな線分の切り分け比が、植物の葉のつき方やオウム貝の殻のでき方、ひまわりの種の配列、さらには宇宙の銀河の構造に至るまで、共通して支配している根源なんだ」
ますますわからなくなった。そんなことがあるのか。あり得るのか。無造作に引いた直線AB。これを点Cで切り分ける。その比率が、自然界のさまざまな構造を支配している……。
信じられない。そう思いながら、ヴィダルはわくわくしている自分に気づいた。
[もし、そのような比率がほんとうにあるのなら、知りたい]
知的好奇心がむくむくと湧いてくる。
「この黄金比を初めて定義したのは、ユークリッドという人だ。紀元前300年ごろの話でね。ま、古代ギリシャの時代に幾何学をつくりあげた偉人だね」
幾何学。<Geometry>
学校で習った記憶がある。たしか三角形や四角形を描く数学のひとつだったような……。
「AC÷CBがAB÷ACに等しいとき、ACとCBの長さの比は1.618対1になる。もちろんABとACの比 も同じ数値になる。そして1.618のほうは終わりも繰り返しもなく無限につづく数で、無理数と言うらしい」
シルヴィオは本を取り出し、あるページを開いて見ながらさきほどの紙の上に数字を書き始めた。
1.6180339887……
「この先、数字は永遠につづくらしい」
と、シルヴィオ。ヴィダルは聞き返した。
「永遠に……?」
「そうだ。割り切れないんだ」
「そんな不確かな数が、いろんなもののかたちを支配している、というのですか」
「そう。共通して支配しているんだ。不思議だろう?」
シルヴィオは、ヴィダルの困惑を見透かしたように言った。
「たとえば」
そう言ってシルヴィオは別の紙を取り出す。
「縦8インチ、横13インチの長方形を描く」
紙の上には横長の長方形が現れた。
「13を8で割ると、1.625だ。ほぼ黄金比に近いだろう? 正確には13インチではなく、12インチと15/16インチくらいなのかな。で、一般に長方形の縦と横の辺の長さの比が黄金比のとき、その長方形を黄金方形と呼ぶ。いいか、ここからが本番だ。この黄金方形のなかに正方形をつくる」
シルヴィオは13インチの上辺の左端から8インチ測り、点を打った。下辺も同様に8インチ。これで8インチ四方の正方形と、右側に今度は縦長の長方形ができた。
「さて、ヴィダル。この右側の長方形の上辺の長さは?」
「えっと、13 – 8だから5インチです」
「そうだ。では長いほうの辺の長さは?」
「8インチです」
「うん。さっきつくった正方形の一辺だからね。じゃあこの小さな長方形の辺の長さの比はどうだろう」
「はぁ。えー、8÷5でいいですね」
「そうだ。計算してみてくれ」
8÷5=1.6
「あっ」
ヴィダルは驚いた。また黄金比に近い数字になる。
「そうだね。黄金比に近い値だね。つまりこの長方形も黄金方形ということだ。ではこの長方形のなかにまた正方形をつくるよ」
シルヴィオは長方形の上辺から5インチ測り、点を打つ。これで5インチ四方の正方形ができた。同時に、その下にはさらに小さな横長の長方形ができている。
「まさかこれも黄金方形だ、と?」
「そのまさか、だ」
「へぇー」
ヴィダルは驚いていた。黄金方形から正方形を切り出すと、必ず黄金方形が現れる。もちろんどんどん小さくはなっていくのだが。
シルヴィオは正方形を切り出してさらに黄金方形を小さくしていく。
「これもまた無限につづけられる。理論上はね。でももう小さすぎて描けない。さて、じゃあ今度は君に描いてもらおう。対角線って知ってるよね?」
「はい、知ってます。角から対角へ引く線のことですよね」
「そのとおり。では最初の長方形の左上から右下までの対角線を引いてみてごらん」
ヴィダルは定規とえんぴつを借りて、線を引いた。
「おおっ」
ヴィダルは描きながら声をあげた。
「ちいさな長方形たちの角に、ぴったり合ってます」
「だね。では次にふたつめにつくった縦長の長方形の右上から、左下に対角線を描いて」
「あぁっ」
再びヴィダルは声を出した。その対角線も、小さくなっていく長方形の角を的確に捉えているのだった。
「すごい。どうしてですか?」
「ヴィダル。対角線の交わる点を見てごらん」
「わぉ!」
すべての長方形の対角線が、その1点で交差している。
「この1点のことを、ある数学者は“神の目”と呼んだ」
[美しい]
ヴィダルは感動していた。幾何学が、こんなに美しいとは考えたこともなかった。学校で習った幾何学は、退屈以外のなにものでもなかったのに。
「さて、まだつづきがあるんだ」
「えっ。まだなにかあるんですか」
「オウム貝の殻だよ」
そう言って、シルヴィオはコンパスを取り出した。
「この最初につくった正方形の一辺の長さに合わせて……」
コンパスは正方形の左上に弧を描いた。
「次に、2番目の正方形の一辺に合わせて……」
今度は右上に弧ができた。こうして左上と右上の弧がつながった。
「さらに3番目の正方形」
シルヴィオは次々と弧を描く。するとそのかたちは小さくなりながら、例の“神の目”へと向かっていく。
できあがったのは“らせん”だった。
「このらせんと、この写真を比べてみよう」
シルヴィオは1枚の写真を“らせん”のとなりに拡げた。
「おおーっ」
オウム貝だった。その巻き貝の殻の巻き方が、できた“らせん”にそっくりそのまま重なるのだった。
「おもしろいだろう」
「はい。いや、おもしろいというより、不思議ですね。奇跡と言ってもいいくらい」
ヴィダルは興奮していた。幾何学という、無味乾燥で退屈でむずかしい数学が、なぜか生き物の世界とつながっている。しかもそれは美しかった。美そのものだった。
ヴィダルのなかから言葉が出てきた。言葉にしないわけにはいかなかった。
「美しさって不思議ですね。数学でも美しいものはつくれるんですね。こんなこと初めて知りました。美にはもしかしたら法則のようなものがあるのかもしれない。いや、現にあるんですね。この法則を身につけたら、ぼくにだって美はつくり出せる。いくらでもつくり出せる。そういうことじゃないですか。自然界の美と、数学。これが見事に重なっているんですね。ですよね、先生」
興奮がおさまらなかった。美しさは数学でつくり出せる。
「このらせんを、ヘアスタイルに使った人がいる」
シルヴィオはさらに意外なことを言った。
「ヘアスタイル、ですか」
「そう。ただし、絵の中だけどね」
そう言ってまた1枚の大きな写真を取り出した。
「“レダと白鳥”という題の絵だ。作者はレオナルド・ダ・ヴィンチ」
知っている。ダ・ヴィンチなら知っている。あまりにも有名な芸術家だ。
「このレダのヘアスタイル。ほら、側頭部に編んだ髪のかたち……」
「これが黄金比のらせんなんですか」
「そう言われている。ダ・ヴィンチは髪型だけでなく、黄金比を使って雲や水の下書きをたくさん描いている。テーマは“大洪水”。壮麗でダイナミックな雲や水のうねりを、この黄金比のらせんを用いて描いたと言われているんだ」
「なるほど。このらせんはヘアスタイルに使えるんですね」
「私は何度もチャレンジしているよ」
ヴィダルは“レダと白鳥”を見つめた。ふくよかで艶めかしい女性の身体。ちいさな頭。目が離せなくなった。
[美しい]
ヴィダルはそう思った。
[どうしてこんなに惹かれるのだろう]
ふと、思いついてデスクの上の定規を手にした。頭頂部からへそまでの長さを測る。9と1/3インチ。つづいてへそから足先までの長さ。15インチ。この比率を割り算してみた。
15 ÷ 9.3 = 1.6129……
「あっ」
身体中に鳥肌が立った。
[ここにも黄金比がある]
へそをCとすると、頭のてっぺんがA。つま先はB。AC/BCが黄金比だとすると、AB/ACも黄金比だということになる。
頭のてっぺんからつま先までの長さは24.3インチ。へそからつま先までは15インチ。
24.3 ÷ 15 = 1.62
シルヴィオも、ヴィダルの計算結果に驚いていた。
「すごいな」
「これは、偶然とは思えません」
「ダ・ヴィンチは美しいものを描くために、黄金比を使っていた。この絵は黄金比で描かれている。へそを基点とした、まさしく黄金分割だ」
黄金分割。<Golden Section>
またひとつ、ヴィダルのなかに言葉が刻まれた。
つづいてシルヴィオは最初に直線を描いた紙を、デスクの上から探し出した。そしてまずCと書いた点を消した。そしてその紙を直線が縦向きになるように、時計回りに半回転させる。つづいて分度器を取り出すと、角度を測り始めた。
「B点から72°の角度で直線を出す。A点からは36°の角度で直線を出す。それが交わった点をDとする」
二等辺三角形ができた。
「つぎにこのD点から36°の角度で直線を出すと、AB上で交わる。ここをCとすると、Dを頂点とするD・C・Bというちいさな二等辺三角形ができるだろう。さて、ここからまたおもしろくなるぞ。このCこそ、ABを正確に黄金分割しているんだ」
シルヴィオが最初に書いた数式が紙の端に残っている。
AC÷CB = AB÷AC
「さらにこの図形は、ADとDBの比も黄金比になっている。DCとCBの比も黄金比」
「黄金比だらけじゃないですか」
「そう。このA・B・Dの三角形を、黄金三角形というんだ」
黄金方形のつぎは黄金三角形。
「さて、ヴィダル。この三角形に、黄金比はまだほかにもある」
「まだあるんですか」
「ま、二等辺三角形だらけだからね。ほら、ここにも。Cを頂点としたC・A・Dも二等辺三角形。で、ACとADは黄金比だ。なぜならAD=ABだからね」
「ということはDCとADも黄金比ですね」
「うん、そうだ。なかなかわかってきたじゃないか」
ヴィダルは数学のおもしろさにぐいぐいと引き込まれていく。
「さて、ここからもっとおもしろいことになるぞ」
そう言ってシルヴィオはDからCへの線をそのまま延ばしていく。次にBから三角形の外側に36°の角度で上へ直線を延ばす。その接点をEとした。
同様に、点Bの内側を36°測り、その線をまっすぐに延ばしてADを突き抜ける。そしてDから外側に36°の角度で上へ。その接点をFとした。
さらにシルヴィオはAとE、AとFを結ぶ。するとそこには美しい五角形が浮かび上がった。
「このA、E、B、D、Fは正五角形。そして……」
シルヴィオは最後に、定規でEとFを結んだ。
星ができた。美しい星。
「ヴィダル。この星のなかに、五角形が見えるかい?」
「あ、はい。そうですね。逆さまの五角形です」
「このちいさな五角形も正五角形なんだ。さらにこの角を全部、線で結ぶと」
みるみるうちに五角形のなかにちいさな星ができる。
「この星のなかにまた……」
「五角形ですね」
「その角を結ぶと」
「星です。きれいです」
「これも理論的には永遠につづく。しかもすべてが黄金比だらけの図形になる」
ふたたび、ヴィダルは感動していた。数学は、美しい。幾何学は、美しい。黄金比は、美しい。
シルヴィオは楽しそうに、今描いた線を消し始める。まんなかに描いた星を消し、外側の五角形をつくっていた線も消す。すると星のかたちだけが残った。
「五芒星形という」
そのとき、シルヴィオはふたつの表現を使った。
<Pentagram>
聞いたことがあった。だが、ヴィダルのこころをとらえたのはもうひとつの表現だった。
その表現は、この美しい星の図形とともにヴィダルのこころに深く刻まれることになる。
<Five-pointed star shape>
この言葉は、後にヴィダルが世界中の美容師たち、アーティストたちを驚かせる“代表作”の表現としてよみがえることとなる。だがその栄光の瞬間までにはまだ、15年ほど待たなくてはならない。
つづく
作図協力:大西隆司
☆参考文献
『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS
『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店
『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房
『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス
『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書
『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書
『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書
『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫
『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書
『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房
『美の構成学』三井英樹著 中公新書
『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 早川書房
『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版