シャワーを浴びた。19日ぶりのシャワーだった。
戦友たちはみな笑顔だった。熱いお湯を浴びながら、はしゃいでさえいた。
ヴィダルも笑顔だった。シャワーですべてを洗い流したかった。身体中に石けんを塗りつけ、両手で激しく擦りあげた。19日分の汗、脂も埃も、きれいに流れ去っていく。しかし、頭の中にはエリアフの笑顔があった。牛肉の缶詰を持って走ってくるエリアフ。その無邪気な笑顔。彼の、最期の笑顔。……流れてはいかなかった。
シャワーを終えると、清潔な『サブラ』が待っていた。イスラエル生まれではないヴィダルも、サブラを着る権利が与えられた。あの『カルメリの丘』を奪還し、守り抜いたご褒美だった。
キブツの人たちが、パーティーを用意して待っていた。羊のバーベキュー。キブツで採れた新鮮な野菜。そしてワイン。みな勝利を祝っていた。
アコーディオンの演奏で、ダンスが始まる。女性たちがダンスに誘う。ヴィダルも踊った。くたくたになるまで、踊った。
その輪の中にサラは、いなかった。
手拍子。歌声。アコーディオン。歓声と嬌声。にぎやかなパーティーからひとり離れ、ヴィダルは夕暮れのなかを歩いた。灌木の間を縫い、砂地に出た。
空に、ひとつだけ明るい星が輝いていた。
ヴィダルは砂の上に倒れ込んだ。大の字になって空を見上げた。
空は、オレンジ色と藍色とに分かれていく。オレンジはその色を濃くしながら、急速にその面積を縮めていく。代わって空の大部分を支配していくのは濃い藍色だ。そこにぽつりぽつりと星が瞬き始める。
その様子を、ヴィダルはいつまでも見上げていた。
気がつくと、周囲は真っ暗になっていた。どうやら眠ってしまったらしい。しかもかなり深く。
空。
思わずヴィダルは声をあげた。
「Wao !」
満天の星だった。無数の星がきらきらと瞬いている。じっと見上げていると、星たちがゆらゆらと揺れているように見える。その中央を横切るように、大きな光の帯があった。それは白い川のようでもあり、やわらかな雲のようでもあった。
宇宙には無数の星がある。
ふと、そんな声が心のなかに響いたような気がした。
〔世界には、数え切れないほどの美容師がいる〕
初めて、そんなことを考えた。
戦争はまだ終わってはいなかった。ヴィダルは、自分が必要とされている時に、必要とされている場所にいることがわかっていた。その充実感は、ヴィダルのこころを満たしていた。
〔ぼくはずっと、このイスラエルにいるのだろうか〕
問いかけてみた。
空では星が瞬いている。沈黙の星々。
〔それともロンドンに戻って美容師をやるのか〕
星たちは、無言で瞬きつづける。
〔このままイスラエルに残って、戦いをつづけるのか〕
エリアフがいた。あの笑顔があった。
そこにかぶさってきたのが、エジプト兵たちの姿だった。丘を奪還するために、向かってきたアラブの兵士たち。突撃のときの、あの形相。
不思議だった。憎しみが湧いてこないのだ。戦友のエリアフを殺した敵兵たち。しかし、湧いてくるのは怒りや憎悪ではなく、どちらかといえば哀しみのような感情だった。
〔彼らは何のために戦っているのだろう〕
ヴィダルは考え始めた。遠くエジプトから送られてきた彼らは、何のために戦っているのだ。たったひとつしかない自分の命を懸けて、何のために。
ヴィダルは気づいていた。エジプト兵は徴兵されて、ここにやってきた。この戦場にいる理由も、情熱も、なかった。彼らは政治家たちの、カイロでふかふかのソファーに座っている政治家たちの、そして勲章を並べた軍服に身を包んだ上官たちの命令に従って、ここへやってきた。
〔ぼくらのような特別な理由、特別な愛国心、特別な憎悪はなかった〕
ヴィダルには、理由があった。イスラエルに来る理由。イスラエルで戦う理由。それはヴィダル本人の存在そのものに関わる理由だった。だからこそ命を懸ける。生きるか死ぬかではなかった。生きる。そのために戦う。
だが、エジプト兵は違う。生きるか、死ぬか。
死ぬとしたら、何のために。彼らの命は、何に懸けられているのだろう。
わからなかった。わからないという事実が、ヴィダルのこころを沈ませていく。
〔エジプト兵は、つまりアラブ人は、ぼくの憎悪の対象ではない〕
ヴィダルはアラブ人を憎んでいるわけではなかった。アラブ人を追い払う気持ちもなかった。ただ、ここにイスラエルという国をつくりたい。イスラエルという、生まれたばかりの国を守りたい。守り抜きたい。それだけだ。なぜならそれはユダヤ人の悲願だから。ここを守り抜かないと、ユダヤ人の未来が消滅してしまうから。だから、戦う。たとえ相手がエジプトではなく、米国であっても同じだ。戦う。もちろん、英国であっても。
むなしくなった。
星は相変わらず、ゆらゆらと瞬いている。
〔なぜ、エジプト兵を撃たなくてはならないのだ〕
思いがけない想念だった。
だが、それは堰を切ったようにあふれ出し、頭のなかを満たしていく。
〔なぜ、アラブ人と戦わなくてはならないのだ〕
そのとき、はっきりとわかった。
〔ぼくはもう、エジプト兵を撃てない〕
なぜか涙があふれてきた。
満天の星空が、ゆがんだ。
ヴィダルはゆっくりと身を起こした。
涙は止まらなかった。
〔ロンドンに帰ろう〕
〔美容師に戻ろう〕
冷たい砂地から腰を上げようとしたそのときだった。
〔だけどぼくはどんな美容師になりたいのだ〕
ヴィダルは再び、砂地の上に大の字になった。
目を閉じた。
まぶたの裏にも無数の星が瞬いていた。
〔世界には、数え切れないほどの美容師がいる〕
もう一度、そう思った。
目を開いて、空を見上げた。
〔この星空のように、たくさんの美容師がいる〕
〔ぼくはそのなかの、どの星になるのか〕
探してみた。ぼくの星。ヴィダルの星。できるだけ大きな星を探した。
〔ぼくはこのなかのひとつになるのか〕
〔いや、ちがう〕
すぐに否定していた。ならば、なんだ。
そのときだった。星が消え始めた。いっせいに消えていく。東の地平線の色が変わった。ぼんやりと、オレンジ色の帯が見えた。帯はみるみるうちにその面積を拡げていく。その美しさに見とれているうちに、空全体に瞬いていた星の姿がほんの数個を残して消えていた。その変化は、劇的だった。
オレンジ色はやがて白色へと変化し、最初の光がほとばしった。
太陽だった。星々の世界を一瞬にして変えてしまう、たったひとつの星。すべての星の瞬きを、ひとりで消し去ってしまう星。太陽。
気がつくと、ヴィダルは泣いていた。今度は感動の涙だった。
〔そうだ〕
〔ぼくは美容師のひとりになりたいのではない〕
なぜか興奮していた。アドレナリンが身体中に噴出してくる。
〔ぼくは世の中を変えたいんだ〕
身体が震えはじめた。
〔ハサミひとつで、世界を変える〕
ようやくわかった。はっきりと、わかった。
〔ぼくはそのために生まれてきた〕
エリアフの笑顔。
〔ぼくはそのために生き残った〕
身体の震えは止まらなかった。勢いよく起ち上がると、ひざがガクガクした。
それでもヴィダルは一歩を踏み出した。自分がほんとうにやるべきことが見つかったのだ。
それまで、ヴィダルは〔やりたいこと〕を探してきた。美容師になったのは母親の勧めであり、自分が選んだ道ではなかった。しかも美容の世界は、ヴィダルをわくわくさせる魅力が乏しかった。だから美容師は、〔やりたいこと〕ではなかった。
子どものころ、めざしていたのはフットボールの選手。『チェルシー』のエースストライカー。でなければ、建築家。それが〔やりたいこと〕だった。
しかし、ヴィダルは美容師の見習いになった。その世界でやってきたことは、〔できること〕を増やすことだった。自分に〔できること〕をつくる。それはヴィダルにとって報酬を得るひとつの手段だった。
〔やりたいこと〕と〔できること〕。幸運にもその両者が合致することがあれば、すばらしい人生になるに違いない。だけど現実は、そううまくはいかない。ヴィダルは十代を通してそういうことを学んできた。だから人は〔やりたいこと〕をあきらめる。〔できること〕を増やしていく。それが人生だ。みなそうやって生きていくのだ、と。
だけど違うのだ。人生にはもうひとつの道がある。それは〔やるべきこと〕と出会うこと。〔やりたいこと〕でも〔できること〕でもない。〔やるべきこと〕。
ヴィダルは初めて、自分の〔やるべきこと〕を発見した。人生の使い方を直観した。と同時に、それがそのまま〔やりたいこと〕となって腑に落ちた。
〔ハサミひとつで、世界を変える〕
身体中が震えるほどの感動。すぐにでも荷物をまとめ、ロンドンに帰る。美容師の仕事に戻る。
だが、ヴィダルはロンドンに帰らなかった。それから3カ月も、イスラエルにとどまった。
1949年2月23日。
イスラエルはエジプトとの停戦協定を結んだ。戦争はひとまず終わった。だがそのあとも、ヴィダルはずるずるとイスラエルにいた。
理由はふたつ。
ひとつはサラの言葉だった。
ヴィダルはサラに打ち明けた。自分の〔やるべきこと〕を。
するとサラはこう言ったのだ。
「それはすばらしいアイデアだわ。だけどヴィダル、ここがあなたのホームなのよ。あなたの国なの。この国のために戦ってくれたことはありがたいわ。だけど、それだけでは十分じゃない。ここに残って、建国のために力を尽くすこと。それがあなたの、ほんとうの〔やるべきこと〕であるはずよ」
サラの言葉は、ヴィダルのこころに刺さった。
もうひとつは、自分自身の問題だった。
美容師に戻るイメージはできていた。だが、〔世界を変える〕イメージが湧かないのだ。
どうやったら変えられるのか。どんな技術が必要なのか。何が革新なのか。何を変えるのか。
まったくわからないのだ。
考えた。
ほんとうに〔やるべきこと〕はなにか。
結論は、すでに出ていた。出ていたはずだった。
イスラエルの建国は、これからもたくさんの人が関わる。たくさんの人の手が必要になる。つまり、ぼくじゃなくてもできる。だけど美容はちがう。ぼくが、世界を変えるんだ。つまり、ぼくじゃなければできないこと。ぼくが、やるべきこと。
だけど、どうやって……。
ぐずぐずしていた。戦争が終わったイスラエルの、明るい陽光。砂漠に拡がる農地の緑。オレンジの香り。あたらしく、実験的な民主主義の胎動。すべてがみずみずしく、それぞれが強烈な魅力を放っていた。
ヴィダルは、逃げていた。
はっきりと見えたはずなのに、〔やるべきこと〕から逃げていた。
実現へと向かう道が、見つけられないのだ。
そのうちに、ヴィダルは自分自身を疑い始める。〔ぼくに、ほんとうにできるのだろうか〕と。
そんなヴィダルを、天が許さなかった。
ある日、ヴィダルの重い腰を蹴り上げるような出来事が起こる。ロンドンから、一通の電報が届いたのだ。
チチ タオレル シンゾウホッサ スグモドレ
つづく
☆参考文献
『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS
『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店
『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房
『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス
『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書
『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書
『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書
『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫
『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書