美容師小説

美容師小説

-­第12話­-【1944年 ロンドン】 「レイモンドに行きなさい」

 「ヴィダル、あのお客さまのヘアをカットしてみるかね」

 コーエン“教授”がそう言ったのは、1943年末。ヴィダルが16歳になる直前のことだった。

 

 ヴィダルは14歳のころから約1年半もの間、ロウトンハウスに通いつづけ、カットの練習をしてきた。だがその対象はあくまでもカットモデルであり、お金をいただく「お客さま」ではなかった。しかも男性ばかりである。

 “教授”は決断した。ヴィタルに「お客さま」の髪をカットさせる。

 

 40代の、どちらかというとぽっちゃりとした体型の女性だった。茶色がかったブロンドヘア。

 あいさつを交わして背後に立つと、突然、ヴィダルの身体が震え始めた。ハサミを持つ手も震えている。

 

 (どうした、ヴィダル。カットはもう1年半も練習してきたじゃないか)

 

 いくら自分にそう言い聞かせても、手は震えつづける。

 

 ハサミを動かす。ゆっくりと、ていねいに。震えていることを女性に悟られるわけにはいかない。

 ヴィダルは懸命に努力した。髪を見つめ、カットに集中した。しかし、震えは止まらなかった。

 真冬なのに額が汗で埋まっていく。背中にも汗が流れる。カットはなかなか終わらない。スタイルが、できないのだ。

 

 女性のヘアスタイルはむずかしかった。ウエーブをかけたあとのイメージができない。ヴィダルはこれまで教わったあらゆるスタイルを思い浮かべてみた。だが、その女性とは重ならない。結局、ヴィダルには最後までイメージが湧かなかった。

 まるで歯が立たなかった。だから“教授”が手直しをする。“教授”がカットを終えると、ヴィダルは女性を電髪機へ案内した。

 やがて毛先にしっかりとウェーブがかかった女性は、笑顔でサロンを後にした。

 

 初めてのお客さま。そのヘアカットは、成功しなかった。しかしヴィダルは不思議な充足感に浸っていた。

 

 (ぼくは切った。お客さまのヘアを、カットした。だけどうまく切れなかった。イメージが湧かなかった。まだまだ学ぶことはたくさんあるということだ。練習も積み重ねなくてはならない。先生に仕上げをお願いしなくてもいいように、ぼくは努力する。練習する)

 

 以来、ヴィダルはハサミを手放さなくなった。時間があれば、ハサミを動かす。動かし方の練習をする。シャンプーのときと同じだった。手の動きを身体に染み込ませるのだ。

 

 それから約半年間、ヴィダルはお客さまの髪を切った。切りつづけた。切ったあとはカールした。パーマをかけた。スプレーを振りまいてセットした。

 少しずつ、スタイルをつくることができるようになった。大きな失敗もしなくなっていた。だけど、それだけだった。

 

 手は自然に動いた。ハサミも連動して動く。カールやウェーブのパターンも数多くストックした。ヘアカラーの技術も身についた。つまり、ヘアドレッサーとして必要とされる技術は一通り獲得したのだ。あとはそれらをさらに磨き、駆使して稼ぐだけ。

 

 事実、先輩たちはそうして生きていた。ダグも、1年前にはデビューを果たし、今では貴重な戦力のひとりとして活躍している。だけどヴィダルは、先輩たちの姿に心躍ることはなかった。自分も同じように活躍する。そのイメージができないのだ。

 

 たとえば5年後、21歳になったときの自分。同じように“教授”のもとで、マダムの髪を整えているのだろうか。

 そう考えると暗い気持ちになってしまう。なぜかはわからない。お客の髪を切り、かたちを整える。それを自分は生涯、つづけるのだろうか。

 

 なにかがちがう。

 

 ヴィダルは引っかかりを感じていた。それはかすかな違和感のようなものだった。心のなかにさざ波がたっている。だけどその原因がわからない。

 ヴィダルは悶々とし始めた。道をまっすぐに走ってきたら突然、袋小路にぶつかった。そんな感覚だった。

 

 その気持ちを、ヴィダルは思いきって“教授”にぶつけてみた。

 「先生、ぼくは今のままでいいんでしょうか。これからも先生のもとで、ヘアドレッサーをつづけていくのでしょうか」

 “教授”は驚いた。

 「どういうことだね。なにか不満でもあるのかな」

 

 “教授”が真っ先に考えたのは給料のことだった。だが、ヴィダルはあっさりと否定する。

 週給はすでに1ポンドを超えていた。デビュー後は、担当したお客の数に応じて報酬も増えるのだ。加えてチップ。ヴィダルにはすでにたくさんのお客がついていた。その全員がチップをくれる。その額を合計すると週給の2倍にも3倍にもなった。だから報酬に不満があるわけではない。

 「未来が見えないんです。たとえば5年後の自分の姿がイメージできない」

 「5年後はもっと稼いでいるさ。君ならお客さまもたくさんつく」

 「だとしても、です。それでぼくは満足できるのでしょうか」

 「満足?」

 君が満足できるか……そんなことを私に聞かれても……。心の中ではそう思いつつ、“教授”は問いかけた。

 「それ以上、君は何を望むのかね」

 「それがわからないんです。ぼくはいったい何を望んでいるのか」

 「ヴィダル。じゃあ聞くが、君はどうなりたいんだ。どんな人生を歩みたい?」

 「わからない。わかりません。ただ、今の延長にはぼくの未来はない。そんな気がするんです」

 “教授”は戸惑いながらも、真剣に話を聞いてくれた。

 「もしかして美容師を辞めたい、と」

 ヴィダルは即座に否定した。

 「いえ、そうではないのです。美容師の仕事はおもしろいと思うようになってます。いや、おもしろいんです。だけど、おもしろくない……」

 「ふむ……」

 コーエン“教授”は本当に困った顔になった。

 

 以来、ヴィダルとコーエンは何度も話し合った。コーエンは辛抱強く、ヴィダルの話に耳を傾けた。話に詰まると、コーエンはいろんな角度から質問を投げかける。そのひとつひとつに答えていくうちに、ヴィダルの頭の中に少しずつイメージが湧き始める。

 あるとき、ヴィダルはこんなことを言い始めた。

 「先生、ぼくはもっと広い世界を見てみたい。このイーストエンドから飛び出して、もっと大きな世界で学びたい。そう思っているのかも知れません」

 「広い世界、か」

 そう言って、コーエンは目を閉じた。

 

 これまで、何人もの美容師を育ててきた。見習い期間中に辞めてしまう者もいた。デビューした途端、辞めていく者も。他のサロンに移った者もたくさんいる。だけど途中で辞めた者の中に成功者はひとりもいない。

 美容は、技術の積み重ねなのだ。おそろしいほど地味な、積み重ねなのだ。しかもその積み重ねに終わりはない。ある程度できるようになったからといって、他のサロンで通用するわけではない。それよりもここにじっくりと腰を据えて、技術を磨きつづけたほうがいい。どこへ行っても通用する技術を、しっかりと身につけたほうがいい。絶対に、いい。

 “教授”は諭した。心をこめて諭した。しかし、ヴィダルの中で湧き出したイメージは、急速にかたちをつくりあげていく。

 

 (そうだ、ぼくは外を見たいのだ。他のサロンを知りたいのだ)

 

 コーエン先生には本当にお世話になった。100ギニーという“授業料”を払っていないのに、すべてを教えてくれた。いや、すべてではない。まだ、もっと、“教授”からは学ぶことがあるだろう。だけど、この気持ちは抑えられない。

 「先生、ぼくはもっとうまくなりたい。もっと成長したい。もっと幅広い技術を吸収したい」

 「そうしてどうするのかね。どんな美容師になるのかな」

 「わかりません。ただ、ぼくはきっと今までの美容師ではない美容師になりたいんです」

 「美容師ではない、美容師……」

 「それがどのような姿なのか、どのような技術なのかはわかりません。だけどぼくは今までだれも見たことがない美容師の姿をつくってみたい。あぁ、わかりました。今ようやくわかりました。ぼくがやりたいことが。ぼくがつかみたい未来が」

 

 “教授”は目を見開いていた。

 こんなことを言うコは、今までいなかった。だれも見たことがない美容師……。そんなこと、コーエン自身も考えたことがない。美容師は、美容師だ。これまでも、これからも。伝わってきた技術を学び、身につけ、磨きながらお客さまの要望に応える。お客さまに喜んでいただく。支持していただく。そうやって生きていく。それ以外に、どんな美容師があり得るというのだ。

 

 コーエンには信念があった。誇りもあった。私のもとで修業して、私のもとで技術を磨き、いつかお店を持って独立すれば生きていける。ずっと生きていける。それが職人の人生ではないか。だけどこのコは、そんな人生では満足できないと言う。

 

 そんな人生……。

 

 どんな人生なのだ。美容師として生きていく以外、どんな人生があるのだ。美容師として生きていくことを、「そんな人生」と言い捨ててしまうことがあっていいのか。こんなにすばらしい職業なのに、「そんな」とは……。

 そこまで考えたとき、コーエンは気づいた。

 

 「そんな人生」と言ったのはヴィダルではない。この私だ。

 

 なぜだろう。このコと話していると、私がこれまでやってきたことが否定されているように感じてしまう。だけどヴィダルは否定しているわけではないのだ。少なくとも否定する言葉は、使ってはいない。それなのに私がそうとらえてしまうのだ。それは、なぜか。

 

 あたらしい世界があるのかもしれない。私の知らない世界。だれも知らない美容の世界。それがもしかしたらヴィダルには見えているのかもしれない。だけど私には見えない。

 あるいはヴィダルにも見えてはいない。それがどのような世界であるのか。まだ、はっきりとは見えていない。ただ、そのような世界がある、ということを夢想しているだけなのかもしれない。

 だけど夢想することこそ、未知の世界への扉ではないのか。人はそうやって、あたらしい世界をつくってきたのではないのか。

 

 「レイモンドに行きなさい」

 “教授”は思わぬ言葉を発した。

 驚いたのはヴィダルだけではない。“教授”自身も、自らの言葉に驚いた。

 ヴィダルは聞き直した。

 「レイモンド、ですか」

 「そうだ。ハウス・オブ・レイモンド。ウエストエンドのメイフェアにある。レイモンドは急速に頭角を現した美容師だ。かなりエキセントリックなところもあるが、いまロンドンではナンバーワンだという評判だ」

 「先生はなぜ、ぼくをそこに……」

 「成長したいんだろう? 今までの美容を超えたいのだろう? あたらしい美容をつくるのだろう? だったらまず、今のベストを求めなさい」

 

 コーエン先生は、恩人だった。14歳のころ、「美容師なんかやりたくない」と思っていたヴィダル。お金がなく、授業料も払えない家庭の子ども。なのにコーエン先生は拾ってくれた。夜遅くまで、教えてくれた。デビューまでしっかりと導いてくれた。本来であれば、これからヴィダルが恩返しをしなくてはならない。コーエン・サロンで働いて、売上をあげて、お礼をしなくてはならない。だけど辞めていく。恩返しはこれからだというのに。

 

 ヴィダルは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。だけど、あたらしい世界への期待や希望は、それをはるかに超えていた。

 

 1944年春が、終わろうとしていた。

 戦争は変わらずつづいている。

 ヴィダルは『アドルフ・コーエン・サロン』を退職した。

 

 さぁ、『ハウス・オブ・レイモンド』へ。

 ヴィダルは意気揚々とウエストエンドへと向かった。

 

 

つづく

 


 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal  Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店