美容師小説

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­-第5話-­【1945年 岐阜­4】 ひょっとしたら、日本は負けるぞ。

「くそっ」

 銀杏の木の下で、大野は震えていた。

 恐怖で震えていた。怒りで、震えていた。震えながらも、頭の中では冷静に考えていた。

 ここまで戦闘機がやってくるということは、空母が近くまで来ているということだ。まさか名古屋港には入っていないだろう。ならば遠州灘か。そこまで空母が来ているのか。

 

 地理は、徹底的に叩き込まれた。特に飛行場の位置、港、海岸線の形状等は日本列島丸ごと頭に入っている。敵が上陸してくるときはどこから来るか。それをどこで、どう防ぎ、排除するか。

 遠州灘。それは静岡県の御前崎から三重県の大王崎に至る海域である。そこに敵空母が来るということは、日本近海の制海権を失ったのか。

 しかも、と大野は思った。今のグラマンはオレを撃ったあとに旋回して戻って来た。その間、ゼロ戦の迎撃はなかった。つまり敵はすでに制空権も握り、日本の上空を自由に飛び回っているということだ。

 

 ひょっとしたら、日本は負けるぞ。

 

 絶対に口にしてはならない言葉だった。心の端に思うだけでも許されない言葉が、大野のなかに湧き上がった。一度、その言葉が現れると、その存在はぐんぐん大きくなっていく。

 

 そういえば、奇妙なことが起こりはじめていた。

 毎朝、学校に行進してくる兵隊さんたちが軍歌を歌わなくなっていた。しかも兵隊たちの中で、銃を掲げる人はどんどん減っていった。最近はわずかにひとり。つまり銃は1個分隊に1挺しかなくなっていたのだった。

 

 さらにビラである。岐阜の街には最近、毎日のように日本の海軍機が飛来して空から大量のビラを撒く。そこには『徹底抗戦』と大きく墨書されていた。ところがその海軍機。古い複葉の練習機なのだ。つまりそれよりほかに飛行機がないのだ。

 上下二枚の主翼を持つ九三式中間練習機。通称「赤とんぼ」。その主翼は布張りだった。機体は木製。金属で覆われていたのは重要部のみ。それは操縦士の周りではなかった。エンジンの周りなのだ。

 

 またあるとき、大野は岐阜の自宅から名古屋への空襲を見た。子どもたちはつねに空を監視することも教わっていたため、すぐに気づいたのだ。

 

 その日、名古屋の上空方面に爆撃機の編隊が見えた。B-29だ。曇り空を埋め尽くしている。名古屋の街からはすでに大量の煙が上がり始めていた。その煙を突き抜けてゼロ戦が2機、飛び上がっていく。

 迎撃だ。

 B-29を狙う高射砲の弾が米粒のように見えた。その米粒が空へ向かって無数に飛んでいく。と、その一発が、あろうことかゼロ戦に当たった。

 えっ。

 大野は息をのんだ。

 味方じゃないか……。

 

 だが、そのゼロ戦は勇敢だった。煙を吐きながら上昇し、B-29の1機に真上から体当たりしたのだ。

 「うわっ」

 B-29は真っ二つに折れて、墜ちていく。大野は拳を握りしめてつぶやいた。

 「お見事です」

 気がつくと、頬には涙が流れていた。

 

 空襲は東京も焼け野原にした。沖縄は陥落し、占領された。世界に誇る戦艦『大和』が撃沈され、広島と長崎には相次いで『特殊爆弾』が使われた。

 それらの情報は日々、ラジオから伝えられた。

 日本は、追い詰められていた。

 

 

 

 8月15日は快晴だった。学校は休みである。そこで大野は母親から買い出しを頼まれた。田舎の農家に行って食料を分けてもらうのだ。大野は自転車に乗って、約20kmの行程を走った。

 荷台には反物がくくりつけられていた。その反物を、食料と交換してもらうのだ。

 

 大野の父は、染め物職人だった。着物の生地を京染めで染める。大野芳男が5歳になるまでは、東京・目黒の祐天寺の近くに住んでいた。ところが、身体の弱かった芳男を案じて、祖母が岐阜の実家に連れていくと言い出した。

「わしが面倒見るから、芳男を田舎で育てよう」

 芳男の父は婿養子である。

「おっかさんが行くんだったら私たちも岐阜に行きましょう。なに、岐阜に行っても仕事はできますよ」

 そういって大野家は一家で母方の地元である岐阜に移り住んでいたのだ。

 

 大野家の押し入れには、まだかろうじて反物が残っていた。その反物が、一家の食料に変わっていくのだった。

 

 農家に着くと、大野は風呂敷に包んだ反物を差し出した。すると農家のおばちゃんは、野菜をたくさん出してきた。

 タマネギ、ニンジン、サツマイモ。

 大野はていねいにお礼を言って、それらを南京袋に詰めた。

 重さは5貫目。18.75kg。

 自転車の荷台に縄でくくりつけると、大野はスタンドを外し、またがった。すると自転車のハンドルが上に浮きかける。

 大野はひょろひょろの身体をしていた。当時の子どもたち、いや大人たちもみな、やせ細っていた。

 浮き上がるハンドルを懸命に押さえ込みながら、大野はペダルを漕いだ。

 

 ちょうどお昼が過ぎたころ、汗びっしょりになった大野が街に戻ってくると、あちこちに人だかりがしている。どうしたのかと思ってのぞいてみると、そこにはラジオがあった。

「なにがあったんですか」

 大野はラジオに向かっていた大人のひとりに聞いた。

「天皇陛下のお言葉だ」

 思わず背筋が伸びた。陛下のお言葉……。

 

 

 1945年(昭和20年)8月15日正午。昭和天皇は国民に対して、自らの言葉で「ポツダム宣言」を受け入れたことを語った。つまり「敗戦」を告げたのだ。

 

 はぁ〜。

 負けたんだ〜。

 

 身体から力が抜けた。

 

つづく