美容師小説

美容師小説

­-第9話-­【1942年 ロンドン】 シャンプーボーイ

 

 月曜日。午前8時30分。

 約束の時刻に、ヴィダルは『アドルフ・コーエン』のサロンに到着した。

 ミスター・コーエンはヴィダルを迎え入れると、他のスタッフに紹介する。

 「今日からここで働くことになったヴィダルだ。みんな、よろしく頼むよ」

 

 大人のスタッフが5人。ヴィダルとほぼ同世代の少年が4人いた。みな男性である。それからレセプション(受付)を担当する女性がひとり。とても美しい微笑みを浮かべていた。

 

 全員の紹介が終わると、ミスター・コーエンはひとりの若いスタッフに告げた。

 「ダグ、君が教育担当だ。アシスタントの仕事をすべて教えてあげてくれ」

 ダグと呼ばれた男は背が高く、やせていた。色白で、タテに細長い顔をしている。ダグは細くて長い手を、ヴィダルのほうへ差し出した。

 「ハロー、ヴィダル。わからないことだらけだと思うけど、なんでも聞いてくれ」

 握手に応えながら、ヴィダルは言った。

 「ハロー、ダグ。いや、ミスター・ダグラス?」

 ダグは、笑顔になって言った。

 「いや、ダグでいいよ。ダグと呼んでくれ」

 

 (あぁ、なんか良さそうな人だ。やさしそうだし……)

 ヴィダルの緊張が、ほんの少しやわらいだ。

 

 「じゃあ、仕事を始めようか。まずは掃除からだ」

 ダグは率先して床掃除を始めた。板張りの床をほうきで掃き、モップで磨く。それが終わると鏡磨きだ。

 フロアは1階と地下1階の2フロア。お客が座るイスと、その前の鏡が対になって1セット。それが10セットあって、それぞれパーテイションで区切られている。その他に、なにやらたくさんのコードがぶら下がった機械が3つ。そこもまたパーテイションで区切られている。それからシャンプーをするボウルが4つある。

 鏡は全部で13枚。額縁のような装飾が周囲に施された、タテに長い楕円形の鏡だ。これを磨く。ぴかぴかに磨く。

 「掃除は、オレたちの仕事じゃないんダ。ホントはね。掃除係の女の人たちがいたのサ。だけどみんな軍需工場にとられて、行ってしまった」

 

 1942年である。第二次世界大戦の真っ只中。

 ロンドンは1940年の秋からナチス・ドイツによる空襲を受けてきた。約9カ月つづいた空襲はロンドンの街を破壊し、その姿を大きく変えていた。

 だが英国空軍も黙ってはいない。1941年5月までに巻き返し、ドイツ空軍をほぼ押し戻した。空襲の数は大幅に減ったが、それでも散発的にロンドンは爆撃されつづけていたのだ。

 そこで市民の多くは、夜になると地下鉄の駅に逃げ込んで暮らした。

 

 『アドルフ・コーエン』のサロンには、地下室があった。地下1階のフロアのさらに下。そこが避難所となっていた。

 

 「週給の話は聞いてるかい?」

 ダグが、鏡の磨き方を教えながら聞いてきた。

 「はい。5シリングだと聞きました」

 「そうだ。それが半年ごとに5シリングずつ上がっていく」

 見習いの期間は2年間だと言われている。半年ごとだとすると、昇給の機会はこれから4回。見習いを終えるころには25シリングになるということだ。20シリングで1ポンドだから、週に1ポンド5シリング。

 ヴィダルはわくわくした。今までいくつか仕事をしてきたが、1ポンドを超える週給を稼いだことはない。

 しかし、報酬はそれだけではなかった。

 ダグは言うのだ。

 「経験を積んで、エクセレントなシャンプーボーイになったらお客さまからチップがもらえる。それがけっこう大きな稼ぎになるんダぜ」

 

 シャンプーボーイ。

 初めて聞く言葉だった。そうか。シャンプーか。ぼくはレディたちの髪を洗うんだ。それが自分の報酬アップにつながる。

 

 スタートは週給5シリングの見習いだ。だけど半年間、辞めずに働くと週給は2倍に増える。

 さらにシャンプーである。シャンプーボーイとして認められるということは、上手になるということだろう。ダグは「excellent」という言葉を使った。「エクセレントなシャンプーボーイになったら」と。つまりすばらしいシャンプーができると、お客さんが喜んでくれるのだろう。そうするとチップがもらえる。逆に、上手じゃなければチップはもらえない。報酬は、上がらない。

 

 積み上げていくんだ。

 ヴィダルは心のなかでつぶやいた。

 

 ヴィダルはこれまで、いくつかの仕事をしてきた。疎開先での新聞配達。14歳の誕生日に学校を辞め、働き始めた軍需工場。ヴィダルはそこで英国空軍の軍人用手袋をつくった。さらに疎開先からロンドンに戻ると、メッセンジャーの仕事に就いた。シティ(金融・商業の中心部)から、波止場まで自転車に乗ってメッセージを届ける仕事だ。

 

 どの仕事も、それなりにおもしろかった。特にメッセンジャーは、心ときめく仕事だった。破壊されたロンドンの、瓦礫の間を縫うように駆ける。空襲直後の道には死体もあった。血まみれの人たちが叫び、うめいていた。その間を自転車で駆け抜ける。

 気にしている余裕はなかった。自分が届けるメッセージは、きっと大事な情報だ。もし遅れたり、届けられなかったりしたら重大な事態が起こる。そう思いながら、ヴィダルは走った。毎日、走った。ルートを変えて走った。敵機に狙われないように。

 まるでスパイ映画の主人公になった気分だった。自分の仕事に対する使命感。この戦争の勝敗に関わるという責任感と高揚感。さまざまな気持ちを織り込みながら、没頭した。だが、それだけだった。

 

 いくらがんばっても報酬は同じだった。いくら経験を積んでも給料は変わらなかった。メッセンジャーだけでなく新聞配達も、軍需工場も同じだった。新聞をだれより早く配り終えたとしても、同じ。配達先でチップをもらえたこともない。手袋をいくら早く、きれいにつくっても同じだった。

 だけど、どうだ。美容師は積み上げることができる。しかも年数と、技術の両方で。つまりがんばれば、稼げる。

 そのイメージは、ヴィダルの心にちいさな灯りをともした。美容師なんかやりたくない。そう思っていた気持ちがほんの少し、動いた。だけどその時はまだ、ほんの少し、だった。

 

 ミスター・コーエンは厳格な人だった。最初に指示されたのは、服装について。

 「ヘアドレッサーにとってたいせつなのはまず、外見だ。お客さまからどう見えるか。お客さまからどう見られるか。それが重要なんだよ」

 そう言って、ミスター・コーエンはヴィダルに3つのルールを告げた。

 「毎朝、ズボンにきちんと折り目をつけてきなさい。靴は毎朝、磨いてきなさい。爪はきれいに切って、整えてきなさい」

 爪はなんとかなった。ただ、靴はむずかしい。朝、家で磨いてもバス停まで歩く間にほこりまみれになってしまう。なにしろ道は瓦礫だらけなのだ。

 

 2日目。火曜日。出勤してきたヴィダルの靴を見て、ミスター・コーエンは激怒した。

 「なんだね、その靴は。ルールを忘れたのか。そんなきたない靴でフロアに立つことは許さない。磨いてきたまえ」

 ヴィダルは困った。家に帰って磨いたとしても、道を歩けばまたほこりにまみれてしまう。

 

 「ヴィダル、これを使えよ」

 ダグだった。手には靴磨き用の缶と、靴墨で汚れたタオル。

 そうか。靴みがきセットを用意すればいいんだ。少し早く出て来て、サロンで靴を磨く。明日からそうしよう。

 「ダグ、ありがとう」

 ヴィダルは急いで靴を磨いた。

 

 だが、困ったことはもうひとつあった。ズボンの折り目である。

 ヴィダルは家族とともに毎晩、地下鉄の駅に避難していた。そこにはアイロンなんか持ち込めないし、使えない。その事情をヴィダルは正直に話した。ところがミスター・コーエンは許してくれない。

 「ヴィダル、ぼくらはプロだ。わかるか。毎日、きちんと折り目のついた服でお客さまをお迎えする。それはプロとして当然のことだ。状況はどうであろうと折り目は絶対だ。どうすれば折り目がつけられるか。自分で解決策を見つけるんだ」

 ヴィダルは途方に暮れた。どうすればいいんだ。あの地下鉄の駅のホームで、ズボンの折り目を……。

 待てよ。

 ヴィダルはひらめいた。思いついた方法を、さっそくその夜に試してみる。

 

 地下鉄のホームは避難してきた人であふれていた。各家族がスペースを確保し、毛布を敷いて寝る。中には若い娘がいる家族も。娘は、寝る前に着替えをする。その様子を盗み見るために、ヴィダルたち悪ガキはいつもホームをうろつくのであった。

 だけど、その夜のヴィダルは悪ガキの誘いを断った。昼間、サロンで思いついた方法を試すのだ。

 まず毛布がしわにならないように、ていねいに敷き直す。その毛布の間に、きれいに畳んだズボンをはさむ。その上にそーっと、寝る。つまり、寝押し。翌朝、ヴィダルは毛布の間からズボンを取り出す。するときれいに折り目がついていた。

 

 ミスター・コーエンは厳しいだけではなかった。営業が終わると技術を教えてくれる。

 シャンプーはダグに教わった。ミスター・コーエンに教わるのはウエーブやカールの方法。古いヘアウイッグ(かつら)を使って教えてくれる。熱心に教えてくれる。ヴィダルだけではない。アシスタント全員に教えてくれる。夜遅くまで。

 その気持ちはありがたかった。ましてやヴィダルは「100ギニー」を免除されている身だ。だけど、ウエーブもカールも、ヴィダルにとっては退屈きわまりない技術だった。

 

 ただ、ひとつだけ緊張を強いられる技術があった。

 “電髪”である。

 

 フロアには、たくさんのコードがぶら下がった機械があった。それが“電髪機”だった。

 パーマネント・ウエーブ。通称・パーマ。当時は電熱を使ってかけていた。“電髪機”は電源部分と、そこからぶら下がるたくさんのコード、さらにコードの先端についた金属の筒(ロッド)でできている。スイッチを入れると、金属のロッドが熱くなる仕組みだ。

 パーマをかけるには、お客の髪にあらかじめ薬剤を塗布。それを少しずつ毛束にして、ロッドに巻き付ける。そのロッド1本1本に、カバーをしてスイッチオン。薬剤と電熱効果でウエーブをかたちづくるのである。

 ヴィダルは、数カ月かけてシャンプーとヘッドマッサージを学ぶと、つづいて電髪機の使い方を教わった。

 

 さて、その電髪である。これがなぜ、緊張を強いるのか。

 

 電髪機のあるパーテイションに入ると、お客はそこに貼られたちいさな紙を見ることになる。そこにはタイプライターでこう書かれているのだ。

 

 お客さまへ

 パーマはお客さまご自身の責任でお求めになってください。空襲等で万が一、事故が起こったとしても当方ではいっさい責任を負うことはできません。

 

 ヴィダルは最初、この注意書きの意味がよくわからなかった。だが、ある事件を契機に心の底から理解した。

 

 ある日のことである。お客がパーマを求めた。スタイリストが毛束に薬剤を塗り、ロッドに髪を巻き付ける。1本ずつカバーをかけると、お客の頭はコードつきのロッドだらけになる。電源のスイッチを入れるのは、アシスタントのヴィダルだ。

 スイッチオン。

 お客は雑誌を開き、読み始める。その様子を見届けて、他のお客をシャンプー台へ案内していると、外からサイレンの音が響いてきた。空襲警報だ。ヴィダルはまっさきに電髪機のもとへ走り、まず電源を切る。つづいてお客にこう告げるのだ。

「申し訳ございません、マダム。私たちはこれから避難所に行きます。必ず戻ってきますので、警報が解除されるまでお待ちください」

 マダムは目を大きく見開いて、ヴィダルを見る。ヴィダルは頭を下げるとすぐに目をそらし、他のお客を誘導しながら地下へと急ぐ。

 電髪機のマダムはそのままの姿勢で、イスに座っている。空襲警報が鳴り響くなか、たったひとりでフロアに残されるのだ。

 「ノー! ノー!!」

 お客は大声で叫び始める。だが、コードつきのロッドに髪を巻き付けると、パーマが終わるまで外すことはできない。つまりお客は電髪機にくくりつけられている状態になるのだ。

 

 やがて、地下にも爆弾の投下音が聞こえてくる。

 ひゅるるるる、ひゅるるるる……。

 聞こえたと思った瞬間、巨大な爆発音と同時にサロン全体が揺れるのだ。

 

 それが当時の日常だった。空襲警報。避難。解除。仕事に復帰。

 その日も、小1時間たって警報解除のサイレンが鳴った。ヴィダルは地下2階の避難所から駆け出し、電髪機のマダムのもとへ走る。階段を駆けあがるヴィダルの耳に、マダムの叫び声が届いた。

 「なんてことよ! だれがこんな機械をつくったっていうのよ! たのむから解放して! 私をここから出して!」

 マダムは空襲の間中、叫びつづけていたのだ。

 パーマは当時、まさに命懸けのオシャレであった。

 

つづく

 

 


 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal  Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店