美容師小説

美容師小説

­-第11話­-【1942年 ロンドン】 1年半の武者修行

 ミスター・コーエンは、あらゆる技術を教えてくれた。毎晩遅くまで、教えてくれた。他のアシスタントが全員帰宅しても、ヴィダルが教えを請うと嫌な顔ひとつせずに残ってくれる。

 「気にすることはないよ」

 ミスター・コーエンはやさしく言った。

 「私はこの2階に住んでいるのだから、すぐに帰れる」

 そう言って笑うのだった。

 

 ミスター・コーエンは「professor(教授)」と呼ばれていた。その理由は髪に関するあらゆることを知り抜いているからだ。しかもその知識をスタッフ全員と共有する。分け隔てすることなく、全員と、平等に。

 ヴィダルは内心、後ろめたい気持ちもあった。100ギニーという『授業料』を払っていなかったからだ。しかしミスター・コーエンはまったく気にしていなかった。

 

 ヴィダルは食らいついた。どん欲に教わった。コーエン“教授”は、学びたいと切望するヴィダルが大好きだった。

 “教授”は惜しみなく教えた。たとえばブリーチ剤の調合。あるいはヘアカラーのプロセス。ひとつずつ、段階を追って、ていねいに教えた。

 

 ヴィダルは、美容をなかなか好きになれなかった。おもしろさを感じるのは、シャンプーのみ。しかしコーエン“教授”の知識量と、その教える姿勢にヴィダルの心は少しずつ解けていく。“教授”は美容の基本技術をすべて、じっくりと教えてくれた。そのなかで、ヴィダルがもっとも知りたかったのがカットだった。

 

 あの、おそろしい体験。お客の髪を“電髪”で焼き落としてしまった失態。そのときの“教授”の手品のようなカット。その手の動き。ハサミの使い方。そのすべてを教わりたい。そう思っていた。

 ところが、“教授”はカットを、ヴィダルにうまく教えられなかった。カールやウエーブによるセットは、すべて教えてくれる。論理的に、明快に。ヘアカラーも同様だった。ところがカットになると、その理論や手順は途端にあいまいになるのだ。

 

 当時、ヘアカットはあくまでもセットのための準備に過ぎなかった。パーマをかけて、ヘアスタイルを“セット”する。ヘアスプレーを使ってセットする。それが美容師の仕事だった。あるいはカラー剤で髪を染めて、要望通りの色にする。当時も“ブロンド”は女性たちの憧れだった。髪を切るのは、セットに都合のよい長さに整えるため。それよりもカラー、パーマ、セット、アップ。

 

 しかし、ヴィダルは見たのだ。あの悲惨な状態になった女性の髪を、ハサミで切り込む“教授”の姿を。見事なバランスに仕上がったベリーショートのヘアスタイルを。

 もちろん、そのときのヴィダルの心にはバイアスがかかっていたともいえる。自らのおそろしい失態。その窮地から救い出してくれたヘアカット。そのとき、ヴィダルはほんとうに救われたのだ。だからこそ“手品”は、実際以上に輝いて見えたのかもしれない。

 一方、“教授”のほうも真剣だった。この状況をいかに切り抜けるか。おそらく普段にも増して集中し、ハサミを使っていたはずだ。しかも焼けてしまった髪は切るほかなかった。ベリーショート以外に選択肢はなかったのだ。

 そのような偶然の連鎖が、ヴィダルの心にひとつのイメージを形成する。

 

 『髪のかたちを、ハサミで、つくる』。

 

 その言葉は、心の底にぺたりと貼り付いた。

 

 やがてヴィダルは、その言葉を起点として世界中の美容師たちの仕事を変えてしまう。だが、その話はもう少しあとのこと。とにかく14歳のヴィダルは、見習い期間中にカットと出会った。ハサミと、出会った。

 

 初めて人の髪を切ることになったのは、それからしばらく後のことである。見習いになって6カ月が経ったヴィダルに、コーエン“教授”はこう言ったのである。

 「そろそろヘアカットをしてみるかね?」

 ヴィダルはドキドキした。マダムのヘアをカットする。このぼくが。いや、それはまだムリ。だってぼくはまだ、ハサミの持ち方すらマスターしていない。

 「まず、ロウトンハウスに行くんだ」

 “教授”は意外なことを言う。ロウトンハウスとは、ホワイトチャペル・ロードの先にある安宿だ。そこには家を持たない人たちや泥酔者がたくさん転がり込む。しかもそのほとんどが、男性だ。

 「そこでカットモデルを探すんだ。練習用のね」

 まず、カットの練習をする。さまざまな問題を抱えた人たちの頭を借りて。だけど果たしてうまく切れるのだろうか。

 不安げな表情のヴィダルに、“教授”は言った。

 「だいじょうぶ。ロウトンハウスの連中はだれひとり、君の未熟さには気づかないよ」

 

 ヴィダルは覚悟を決めて、ロウトンハウスに電話をかけた。

 「アドルフ・コーエンサロンのサスーンと申します。どなたかそちらにヘアカットが必要な方はいらっしゃいませんか?」

 受付の女性は慣れたものだった。コーエンサロンからは同様の依頼が何度も来ている。

 「わかりました。声をかけてみます。夕方の6時にいらしてください。きっとだれか見つかっているはずですから」

 ヴィダルは夕方になると、ロウトンハウスへと向かった。ホワイトチャペル・ロードをまっすぐに、10分ほど歩くと到着する。フロントに行ってあいさつすると、受付の女性は手のひらを上にしてロビーを指した。安宿には似合わない、優雅な動きだった。

 

 イスに座っていたのは、大男だった。背もたれから背中が半分ちかくはみ出ている。髪はぼさぼさで、赤い。

 それがパトリックとの出会いだった。アイルランド人。アイルランドはほんの4年前の1938年に、イングランドから独立したばかりであった。

 

 あいさつのために立ち上がったパトリックは、身長が2メートルはあるかと思うほどの大男だった。体重は100キロを超えているだろう。ヴィダルを見下ろしながら右手を差し出す。

 握手をすると、その手はヴィダルの手を完全に包み込むほど大きかった。

 「君が、このアイルランド紳士の髪をカットするイングランドの少年か」

 大きな声だった。

 「あ、はい。今日はよろしくお願いします」

 「おぉ、こちらこそよろしく頼むよ」

 

 ヴィダルはパトリックを先導して、サロンへの道を歩いた。その間、パトリックはひっきりなしにヴィダルに話しかける。

 「イングランド王のヘンリー8世が、アイルランド王を名乗ってから400年。われらはずっと君らイングランドと戦ってきたわけだ」

 ヴィダルは、その歴史を学校で学んでいた。イングランドはその後、アイルランドを併合。植民地化している。

 「そのイングランドの少年が、アイルランド紳士の髪をハサミで切る。はっはっはっ、愉快じゃないか」

 ヴィダルはだんだんこわくなってきた。この人、だいじょうぶかな。サロンでなにか揉めごとを起こさなきゃいいけど。

 

 サロンに着くと、ヴィダルはいちばん奥のパーテイションにパトリックを誘導した。サロン内を歩きながら、パトリックはスタッフ全員にあいさつしている。その声はサロン中に響き渡った。

 

 シャンプーには時間をかけた。パトリックは強い体臭をふりまいていたからだ。顔や首まわりは、自分で洗ってもらった。「失礼ですが」と言って、洗面所に案内し、せっけんとタオルを渡すと素直に洗い始めたのだ。

 使い古したガウンを着てもらい、鏡の前のイスに座ってもらうと、ようやく体臭は気にならなくなった。

 ヴィダルはハサミを手にした。

 

 カットの技術を、きちんと教わったわけではなかった。だからサロンで見てきた先輩スタイリストたちのカットを真似するしかない。

 最初はこのあたりから。左手をこう使って、ハサミをこう入れて。

 

 じょりっ。

 

 ヴィダルの手に、そんな感触が伝わってきた。紙を切る感覚とはまるで違う。

 

 じょりっ。

 

 その瞬間、ヴィダルの意識は遠くに飛んだ。

 

 じょりっ。

 

 なにか生き物の一部を切っているような感触。いやもちろん切ったことはない。だけど感じるのだ。生きている。髪は、生きている。生きたまま、ハサミで切り離される。それは髪にとって無念なのか。それとも役割を終えて旅立つ快事なのか。

 

 遠くから、大声が響いてきた。

 パトリックだ。

 忘れてた。この髪はパトリックの髪なのだ。パトリックはヴィダルに聞いていた。

 「ジョン・シングは知ってるだろう。読んだことはあるかい」

 「えっ、ジョン……」

 「ジョン・ミリントン・シングだ。わがアイルランドの偉大なる劇作家だ」

 「いえ、知りません」

 「なんだ、イングランドでは教えないのか」

 そんな話はどうでもよかった。ヴィダルは髪を切ることに熱中し始めた。

 

 『髪のかたちを、ハサミで、つくる』。

 その言葉が、心の底からよみがえってきた。だけどそのときのヴィダルには、なにもできなかった。ただひたすら、先輩たちのやり方を思い出し、真似をして、ハサミを動かす。

 じょりっ、じょりっ、じょりっ。

 切れば切るほど、かたちはくずれていく。修正しようとすると、さらにくずれる。パトリックの髪はどんどん短くなっていく。

 ヴィダルは焦っていた。だが、パトリックは語りつづけていた。ジョン・シングの作品のことを。

 2時間、切りつづけていた。サロンのお客はすべて帰ってしまっていた。夜の8時半。ようやく、なんとかかたちができた。

 パトリックは、鏡を見つめる。顔を右や左へ向けて、チェックする。ヴィダルは別の鏡を持って、後ろも見えるようにした。すると後ろもじっくりと見つめる。

 ヴィダルの心は不安で一杯だった。鏡を持つ手は震えていた。

 しかしパトリックは大きくうなずくと言ったのだ。

 「いいね。最高に上品じゃないか。少年、いつか君はきっと一流のヘアドレッサーになるよ」

 立ち上がってガウンを脱ぐと、パトリックはヴィダルの手にコインをねじ込んだ。

 チップだった。モデルなのでカット料金はいただかない。だからお金はいらないのだ。なのにパトリックはチップをくれた。それはたしかに少額ではあった。だが、ロウトンハウスに住むパトリックにとってはけっして少額ではない。もちろん、ヴィダルにとっても少額ではなかった。生まれて初めてのカットで、お金をいただいたのだ。

 ヴィダルがこころからお礼を言うと、パトリックは言った。

 「次回はもっとチップをはずむよ。来月の予約を入れていいかな」

 うれしかった。だけど、サロンの規定でカットモデルは予約ができない。

 「ありがとうございます。そのころになったら、私があなたを探しに行きます」

 

 ヴィダルのロウトンハウス通いが始まった。毎日のように赴き、カットモデルを連れてくる。どんなモデルも、まともな社会生活を送っている人ではなかった。気性が荒かったり、攻撃的だったり、短気だったりする。しかも全員が強烈な体臭をふりまく。それでもヴィダルは通った。通いつづけて、髪を切りつづけた。それはまさに武者修行だった。

 もちろん、月に一度はパトリックである。相変わらず大声で、文学を語る。演劇を語る。政治を語る。最初は聞いたこともなかった作家たちの名前。それがいつの間にか、熱心な読者であるかのような気になっていく。

 『ジョン・シング』『ジェイムズ・ジョイス』『サミュエル・ベケット』……。アイルランドを代表する文豪たちのことを、ヴィダルはパトリックから学んでいくのであった。

 

 そんな日々が1年半。ヴィダルは数え切れないほどのカットモデルの髪を切った。するとある日、“教授”が言った。

 「ヴィダル、あのお客さまのヘアをカットしてみるかね」

 

つづく

 

 


 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal  Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店