美容師小説

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­-第6話-­【1945年 岐阜­5】 生きたいっ!

­第6話­【1945年 岐阜­5】 生きたいっ!

 

 

 「ただいま」

 大野は家にたどりつき、野菜の入った南京袋を担いで玄関から土間に入った。

 「おかえり」

 母親の声がした。いつもは土間の上がり口まで来て迎えてくれる母が、居間で背中を向けていた。

 母だけではなかった。父も、妹たちも、祖母も居間にいた。だが、だれひとりとして顔を上げるものはいなかった。

 家族の中心にはちゃぶ台があり、棚の上にはラジオが乗っていた。

 蝉の鳴き声が、家の中まで満たしていた。

 

 大野が近づいていくと、父が言った。

 「さっきラジオでな……」

 「はい。知ってます。陛下のお言葉ですよね」

 「そうか。知ってるか」

 「はい」

 父は泣いていた。祖母も母も泣いていた。

 「陛下は、こうおっしゃった。苦難なれども、もう一度立派な国をつくれ、と」

 そう言って、また父は涙を流した。

 

 大野は、その様子を見ながら思った。あの、岐阜の連隊の兵隊さんたち。サイパンに出征していった歩兵第136連隊のみなさん。大人たちは「玉砕」とか言ってるけど、あの兵隊さんたちは死んじゃったんだ。みんな、ひとり残らず殺されたんだ。「玉砕」なんて、大人たちはなにか華を飾ったみたいな言葉で言うけど、ほんとうはそんなものじゃない。ひとり残らず殺されたんだ。

 

 連隊の出征には、大野も立ち会っていた。市役所から駅まで、まっすぐにつくられた道路。広い、広い道路。後に「昭和通り」と呼ばれるようになる道路は当時、「凱旋道路」と呼ばれた。その道路を、岐阜の1個連隊が行進したのだ。

 

 

 1944年4月。すでに桜は散り終えていた。街の人たちも、国民学校の生徒たちも、みんなで日の丸の小旗を振って見送った。行き先はサイパン島。岐阜の歩兵連隊はサイパン守備隊を命ぜられ、軍港のある名古屋へと向かったのである。

 

 連隊の中に知り合いの兵隊さんがいたわけではない。だが、大野は目の前で見たのだ。日の丸を振って、送ったのだ。万歳と、叫んだのだ。そのときの兵隊さんたちの顔。横顔。張り詰めた表情。

 

 ラジオから、「サイパン玉砕」の報が流れたのは、その3カ月後。1944年7月のことだった。聞けばサイパン島守備隊は7月9日に全滅。それをニュースは「玉砕」と言った。その言葉に、大野は子どもながら引っかかっていたのだ。

 

 「玉砕」って、なんだ。やられたんだろう。殺されちゃったんだろ。アメリカに。

 

 その記憶が、8月15日に再び噴き上がってきたのだった。

 

 

 「お父さん、これからどうなるの。日本はどうなるっちゃろ」

 大野は恐ろしかった。みんな殺されるのか。

 

 大人たちは言っていた。女はみんな頭を丸めて山に逃げろ、と。アメリカ兵につかまったら最後、なぶりものにされて殺される。

 戦争に負けるとはそういうことだと、大野たちは教え込まれていた。だが、母も祖母も、妹たちもまだ居間に座っていた。髪も、まだあった。

 「おそらく……」

 父は、口を開いた。

 「日本はアメリカに占領される」

 「占領って、どういうこと?」

 「アメリカの軍隊が日本に入ってくる。日本軍は武器もすべて取られて解体されるやろう」

 「じゃあ、各務原の飛行場にもアメリカが来るの?」

 「そうなるやろ」

 「それはいつ?」

 「わからん。しかしそう遠くはない」

 「それからどうなるの?」

 「わからん。日本はアメリカの属国になるかもしれん」

 属国……。つまりアメリカの一部となるということか。

 

 そのとき、大野はもうひとつの疑問を懸命に押し殺していた。ぼくたちはどうなるの。女の人はどうなるの。妹たちは。みんな殺されるの?

 大野は想像しないようにした。家族が殺される姿。自分が殺される姿。だけど、そのイメージは次から次へと浮かんでくる。そのときだった。大野の中を強烈な思いが突き抜けた。

 

 生きたい。

 

 どうしようもなく湧き上がってくる思いだった。

 

 生きたい。

 生きて、家族を守りたい。

 

 その思いは、強い光で大野の中を照らした。

 

 殺されるイメージは、消えた。

 生きたい。いや絶対に生きてやる。生き延びてやる。生きて家族を守る。それが長男の務めだ。

 覚悟を決めた。11歳の大野芳男は、覚悟を決めた。

 

 

 アメリカ軍の兵士たちが岐阜にやってきたのは、9月初旬のことだった。大型のジープに乗ったアメリカ兵たちは、みな完全武装。全員が自動小銃を外へ向けて構えていた。

 1台に8人が乗ったジープは、次から次へと道を通り過ぎた。その隊列はいつまでも終わらない。すべての兵隊が完全武装だった。そして全員が自動小銃をこちらに向けて構えているのだ。

 あぁ、これは勝てない。日本は負けるはずだ。

 大野は心の中で思っていた。あの、国民学校に行進しながらやってくる1個分隊の日本兵。10数名の中で鉄砲を掲げていたのは、最終的にはたったの1人。しかもその銃は三八式歩兵銃だった。

 三八式歩兵銃が設計されたのは1905年。明治38年。よって三八式という。大日本帝国陸軍に最初に配備されたのは1908年。明治41年。その銃が、太平洋戦争まで使われつづけていたのだ。

 

 ジープの隊列はまだつづいていた。

 そうか。これが占領か。こうやってアメリカが日本に入ってくるのか。

 そのときだった。

 思いもよらない言葉が、湧いてきた。

 

 英語、勉強しなきゃ。

 

 家族を守るためには、英語だ。これからは英語を勉強しないと、生きていけない。生き延びるためには英語だ。そうだ。英語だ。

 大野は、わかった。今、はっきりとわかった。自分のやるべきことが、わかった。

 

 

 ちょうどその1年前である。

 英国のロンドンにも、同じように思う少年がいた。

 

 英語、勉強しなきゃ。

 

 日本人ではない。ユダヤ人の少年。

 英国籍の、英語を母国語とする少年。

 ヴィダル・サスーン。

 当時16歳、であった。

 

つづく