街の色が、変わっていた。
少なくともヴィダルの目には、そう映った。
1946年。ロンドン。
復興は急ピッチで進んでいた。しかし空爆の爪痕はまだロンドンの街の至る所で剥き出しになっていた。
ヴィダルが見ていた街の色。それは、おびただしい数の建物が解体・建築されるほこりまみれの“色”ではなかった。
たくさんの穴ぼこが、応急措置でふさがれた道路の“色”でもなかった。
女性たち、だった。
ロンドンの女性たちはみな、同じようなヘアスタイルで街を歩いていた。パーマをかけ、セットをして、スプレーで固めたヘアスタイル。しかもその色はレッド、ブロンド、ブラウン、ブラック、グレイ……。
色は、あった。だけどけっして美しくはなかった。
コントラストの強いカラーを、美しいとは思わなかった。しかも固めたセットスタイルである。それが女性の美しさを表現しているとは思えなかった。セクシーさを演出しているとも思えない。むしろ逆効果。そう思った。
まるでセンスの悪い“帽子”じゃないか。なんでこんなにセンスのないヘアスタイルばかりなんだ。せっかく戦争が終わったというのに。あたらしい時代が始まったというのに。
耐えられなかった。
ヴィダルは店に飛び込み、サングラスを買い求めた。濃いサングラスで視界を覆わないと、これ以上歩けない。そう思った。
ヴィダルは探していた。あたらしいヘアスタイル。だが、そのイメージが明確だったわけではない。また、たとえイメージがあったとしても、ヴィダルの技術ではまだ具象化できない。ヴィダルは自らの技術力不足を認識していた。
だからヴィダルは夜になるとヘアドレッシング・アカデミーに通った。英国のアカデミーだけでなく、イタリア系やフランス系のアカデミーにも行ってみた。
アカデミーの講師には自由に質問することが許されていた。そこでヴィダルは質問した。
どうしてヘアをセットするのか。
スプレーで固めるのか。
執拗に聞いた。すると講師たちはみな一様に驚くのだった。
“こいつはどうしてそんな質問をするんだ”
“セットにスプレー? お客さまが求めているからに決まってるじゃないか”
そのうちに、ヴィダルの存在はウエストエンドの講師たちの間で有名になっていく。教室にヴィダルがいるだけで、講師たちはあからさまに迷惑そうな表情を浮かべるのである。つまりヴィダルはアカデミーの“厄介者”となっていった。
しかしひとりだけ、迷惑に思わない講師がいた。フレディ・フレンチ。彼はヴィダルの質問に、デモンストレーションで答えた。
フレディは、仕上げにスプレーを使わなかった。ドライヤーで乾かしたあと、ブラシでスタイリングをしたのだ。
「ワォ」
ヴィダルは思わず声を出した。
ブラシで簡単にスタイリングができる。しかもそのスタイルは、ナチュラルでやわらかい。
画期的ともいえるその技術を、フレディは惜しげもなくアカデミーで教えていた。ヴィダルは夢中になって再現しようとした。しかし、アカデミーだけでは限界がある。そこでフレディが主宰するサロンを紹介してもらい、見学に行くのであった。
大きなサロンだった。フロアにはたくさんのお客がいて、たくさんのスタッフがいた。その全員がブラシを使った。仕上げはドライヤーとブラシ。それ以外は何も使わない。
ヴィダルのなかで、何かが動いた。意識のなかにちいさな塊が生まれた。だがそれは残念ながら、育ちはしなかった。ちいさな塊は、ヴィダルのお腹のなかの“鉛雲”に沈んでいくのであった。
ヴィダルはあいかわらず、どすぐろい憎悪を飼っていた。
「ユダヤ人を排斥せよ」と叫ぶファシスト(※)たちは、1946年のロンドンにもいた。彼らはドイツ人ではない。英国人だ。
筋金入りのシオニスト(※)だった母は、自宅でたびたび集会を開いた。集まるのは英国のシオニズム(※)の活動家たち。そのなかのひとりが、こんなことを語った。
ドイツ人がドーバー海峡を渡って英国にやってくることを、なんとか阻止せねばならない。ヨーロッパ大陸の反ユダヤ主義者たちが、国内のファシストたちと一緒になってこの国を変えてしまうだろう。ヤツらは英国内のユダヤ人同胞35万人全員を殺してしまうだろう。
その話を聞いたとき、ヴィダルのなかに生まれたのは恐怖であり、それ以上の憤怒でもあった。
われわれは、なぜこんなに差別されなければならないのか。
差別は、日常的に存在した。ヴィダルは、ものごころついた時からその差別を感じていた。いや、当時は“差別”という意識はなかった。どうしてぼくらはからかわれるのだろう。どうしてこの子たちは、ぼくらを攻撃するのだろう。最初にぶつかったのは、そんな“疑問”だった。
ヴィダルは5歳のときに、孤児院に入れられた。それはユダヤ教徒の会堂『シナゴーグ』に併設されていた。だから孤児院の仲間たちはみなユダヤ人の子どもたちだ。小学校に入学すると、その仲間たちと一緒に孤児院から通学する。ユダヤ人の子供が差別を体験するのは、たとえばそういうときだ。
なぜか小学校の級友たちが、学校へ向かうヴィダルたちをからかう。教室でも寄ってたかって“口撃”する。もちろんヴィダルたちも負けてはいない。孤児院の仲間たちと共に反撃する。撃退する。それが日常だった。
だが、今はどうだ。18歳になったヴィダルは、大人の世界でも“差別”が行われていることを知っている。ユダヤ人に対する“攻撃”が行われていることを。しかもその目的は“ユダヤ人をこの世から抹殺してしまうこと”なのだ。
子供のころの、ののしり合い(口撃)などではなかった。殴り合いのケンカだって、かわいいものだ。大人の反ユダヤ主義者は、ユダヤ人を殺す。ナチス・ドイツは、『ガス室』に送った。殺された罪なき同胞は600万人と聞いた。老若男女。さらにおびただしい数の子どもたち。
その話を聞いて、ヴィダルは怒りに震えた。
第二次世界大戦が終わり、ナチス・ドイツが滅びても、なおヨーロッパ大陸にはファシストが残った。大陸だけではない。英国にも。だから戦わなくてはならない。ファシストたちと戦う。ユダヤ人同胞を守るために。
シオニストたちの目標は、“ユダヤ人国家の建設”であった。
なぜ、世界中でユダヤ人が排斥されるのか。それは“国”がないからだ。そう信じていた。ユダヤ人の国があれば、そこは差別や闘争のない“楽園”になる。そう信じていた。
ヴィダルの夢も、そこへと向かった。美容よりもまず、やるべきこと。それは“ユダヤ人国家の建設”。だがその前に、英国内のファシストたちをやっつけなくてはならない。
第二次世界大戦で活躍した軍人たちのなかにも、ユダヤ人はたくさんいた。そのなかのひとり、モリス・ベックマンは元・海軍軍人だった。そのベックマンが集会を開いた。そこに戦争から戻ったばかりの元・軍人43人が集まった。その多くが戦争の英雄として、勲章を授けられた者たちである。
集会で、ベックマンは宣言した。
「英国各地に吹き荒れるファシズムの嵐を、阻止せよ」
その宣言は、英国中のユダヤ人に届いた。ロンドンでは各地域でリーダーが選ばれ、組織が形成されていく。
ヴィダルが住むイーストエンドでも、リーダーが誕生した。ビッグ・ジャッキー・マエロビッチ。
ジャッキーはヴィダルの家の集会にも、たびたび参加していた闘士だった。
全国的に組織されていった抗ファシスト組織。その名は『43グループ』と呼ばれた。ベックマンの招集に最初に応じた43人の元・軍人たちの集団を意味していた。
ヴィダルは迷わず参加した。ジャッキーのもとに馳せ参じた。
『43グループ』の中核を成す元・軍人たちは、戦争の最前線でファシズムと戦い、打ち破った英雄だった。その英雄たちと行動をともにし、ファシストたちと対峙することは、ヴィダルにとって何より誇らしいことだった。
元・軍人たちは、ヴィダルのような志願者たちに自己防衛術を教えた。軍の、正規の訓練とまではいかないが、ファシストたちと戦う準備はしなくてはならない。イーストエンドの秘密の集会場にはトレーニング・ジムがあり、志願者たちに開放された。ヴィダルはそこで身体を鍛えた。またジムでは実際の戦闘に必要な戦術や、作戦行動も教わった。繰り返し言われたのが、つねにグループで行動すること。単独行動は絶対にしてはならない。
“戦闘”の機会はすぐに訪れた。ある夜、ファシストたちの集会があることを聞きつけ、キルバーンにあるパブを包囲した。一気に攻撃をしかける。反撃もすさまじい。殴り合いがつづく状況に、警察が駆けつける。警察は当然のことながらファシストたちはもちろん、ヴィダルたちも逮捕した。
捕まった仲間は3人。ヴィダルもそのひとりだった。さらにもうひとり、仲間が捕まった。モー・レヴィ。だれよりも勇敢でどう猛な彼は、警官に徹底反抗を試みていた。しかし両手はすでに手錠で動かない。そのうちに、巡査部長が警棒を振り上げた。
顔だけは避けていた。しかしそれ以外の全身を、巡査部長は殴りつづけた。殴りながら、レヴィとヴィダルたちをののしった。
「くそユダヤ野郎」
「ヒトラーが殺しそこねたイディッシュ野郎」
「娼婦から生まれやがったくそ息子」
「くだばりやがれ」
ロンドンのど真ん中である。夜中とはいえ、まだたくさんの人が歩いていた。そのなかで、警官は大声でののしり、仲間を殴りつけるのであった。
ヴィダルは怒りで震えていた。震える身体を止められなかった。
警察署に留置されたヴィダルたちは翌日、裁判所へと連行された。ヴィダルは裁判官に、前夜の出来事を話した。とくに巡査部長の行動と言動を詳細に語り、抗議した。市民を守る警官が、このような行動に出ていいのか、と。
警官に頼れないのなら、裁判官だ。ヴィダルは裁判官に罪を裁いてほしかった。警官の罪。巡査部長の罪。
だがヴィダルたちの申し立てを聞いていた裁判官は、こう言った。
「ここはナチス・ドイツではない」
ヴィダルには最初、意味がわからなかった。
「ここは英国だ。ドイツではない」
裁判官は平然とそう言う。
当たり前のことだった。なぜ、この人はこんなことを言ってるのだろう。
そう思って、裁判官の顔をもう一度、見た。するとその目には蔑みの色が浮かんでいた。
「われわれの警官が、そんなことをするはずがない。けっしてそんな行動には出ない」
えっ、と思った。
「いや、事実です。証人だってたくさんいます」
ヴィダルは抗議した。すると、裁判官の表情は蔑みから怒りへと変化する。
「もう家に帰れ。家に帰って、いい子になるんだ。そうしてもう二度とここへは顔を見せるんじゃない!」
それが英国の現実だった。英国だけではない。世界中でユダヤ人は同じような目にあっているのだ。それがはっきりとわかった。大人たちの話ではなく、自らの体験として。
抗ファシスト。ヴィダルの行動はますます過激になっていく。
ヴィダルは徹底的に身体を鍛えた。夜になると街へ出て、ファシストたちを追った。
警官にも、裁判所にも頼らない。ぼくらはぼくらでファシストと戦う。ファシストを蹴散らす。その行動は英国中に拡がっていった。
ヴィダルたちは連戦連勝。グループでファシストたちを追い込み、叩きのめした。だがある夜、ヴィダルは窮地に追い込まれた。
ファシストを追い回すうちに、グループからはぐれてしまったのだ。
まずい。そう思ったときには、もう複数の足音が迫っていた。
ヴィダルは走った。全力で走った。だが、足音はどこまでも追ってくる。
とっさに角を曲がった。その瞬間、右手にあった家のフェンスを跳び越えていた。
知らない家だった。だが、ヴィダルが飛び込んだ直後に、扉が開いた。押し殺したような女性の声がする。
「こっちよ!」
ヴィダルは声のする方へ駆け、扉のなかに転がり込んだ。
救われた。
もし、捕まっていたら殴り殺されていただろう。ヴィダルは命を救ってくれた女性に何度も感謝の気持ちを伝えた。伝えながら、女性の胸に光るペンダントに目を留めた。
十字架だった。つまりキリスト教徒。
ファシストは、ユダヤ人最大の敵だった。だが同時に、キリスト教徒もユダヤ人を迫害していた。
「どうして助けてくれたんですか?」
ヴィダルは聞いた。すると女性はこう答えた。
「夫はヨーロッパで戦死したの。私が憎いのはファシストの連中なのよ」
ヴィダルは女性に名前を聞いた。あとで必ずお礼に来るから、と。しかし彼女は拒絶した。
「もう来ないで。それに私を探さないで」
「どうして?」
「たとえ近所にファシストがいても、私はそのなかでこれからも暮らしていかなくてはならないから」
英国のファシスト運動は結局、浸透しなかった。街を闊歩していたファシストの象徴『黒シャツ隊』は、徐々に姿を消していった。それは『43グループ』と、その行動に呼応したヴィダルたちユダヤの若者の勝利であった。
ロンドンだけでなく、英国のあちこちで若者たちが蜂起した。数々の “市街戦”で、ファシストたちと戦う若者たち。
ファシストが、英国から一掃されていく現実を目の当たりにして、ヴィダルは思った。
“もしそれがほんとうに重要なことだと確信していれば、不可能なことはない”
“戦う勇気とその能力があれば、人々を、世の中を、変えることができる”
その確信は、その後のヴィダルの人生に大きな影響を与えることになった。
つづく
※脚注
【ファシスト】
ファシズムを信奉する人々
【ファシズム】
全体主義、国家主義的政治形態。民主主義や自由主義を否定し、国家の名のもとに個人の自由を制限、独裁を志向する。元はイタリアの独裁者ムッソリーニが提唱。その後、ヒトラーのナチス・ドイツの政治形態にも使われた。
【シオニスト】
シオニズムを支持する人のこと
【シオニズム】
「イスラエルの地(パレスチナ)」に、ユダヤ人の故郷を再建しようとする運動。つまり「シオン(Zion)の地に帰る」運動のこと。「シオン」とは、聖地エルサレムの丘の名前。1890年代に提唱され、1948年のイスラエル建国につながった。
☆参考文献
『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS
『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店
『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書
『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書
『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房
『差別原論』好井裕明著 平凡社新書