美容師小説

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­-第22話­-【1946年 イエーツバリー】 なぜ、ぼくたちは差別されるのか。

 翌日、ヴィダルは訓練所に戻った。

 ロンドンから真西へ約130km。ウィルシャー州イエーツバリー。

 広大な練兵場で、さっそく攻撃態勢の基礎訓練が再開された。

 

 訓練中も、ヴィダルの頭のなかにはシナゴーグで聞いたラビの話が渦巻いていた。強制収容所から生還した人。そのおそろしく、呪わしい話。腹の底から止めどなく湧き上がる憎悪のマグマを、ヴィダルは懸命に抑え込んでいた。

 

 重い銃を持ち、丘を駆け上がる訓練が始まった。徴集された兵たちが横一線に並び、頂上へ向かって一斉に駆け出す。そのとき、ヴィダルの肩がとなりの兵に当たった。

 訓練では当たり前のことだった。若き兵たちがひしめき合って駆けるのだ。ぶつかるのは当然だ。だが、そのとなりの男は叫んだのだ。

 「だれにぶつかってやがるんだ、このユダヤのクソ野郎が」

 

 <You fucking Jew bastard !>

 その言葉が、ヴィダルのマグマに直接飛び込んだ。まるで反射するかのようにヴィダルの身体は動いた。持っていた銃の銃床で、叫んだ男の左頬を思い切り打った。その衝撃で、男は地面に崩れ落ちる。すぐさまヴィダルは男に馬乗りになって顔を殴り始めた。拳を握り締め、右からも左からも殴った。叫び声をあげながら殴りつづけた。さらに男の両耳をつかむと、頭を地面に叩きつけた。何度も、何度も叩きつけた。

 

 気がつくと、ヴィダルの身体は6人の兵士たちによってがんじがらめにされていた。6人は、倒れた男からヴィダルを必死になって引きはがそうとしていたのだ。

 

 6人に羽交い締めにされたヴィダルの身体は、ガタガタと震えていた。肩が大きく上下し、激しく息を吐きつづけた。

 士官が飛んできた。

 「なにがあった」

 士官の問いに、ヴィダルは答えた。

 「この男が私を侮辱しました」

 

 男は、倒れたまま動かなかった。

 

 「どう侮辱した」

 「ユダヤのクソ野郎、と」<You fucking Jew bastard !>

 「ほんとうか」

 士官は周囲にいた兵士たちに聞いた。

 「ほんとうです」

 「間違いありません」

 口々に、ヴィダルの話が正しいことを証明してくれる。

 

 士官は、動かない男を引きずり起こした。もうろうとしている男の襟元をつかみ、声を張り上げた。

 「おまえはなんて愚かなのだ。ここは英国空軍の訓練所だ。英国全土から集められた英国人の訓練所だ。ここにいるのはみな英国人だ。なのになぜ、おまえは差別する。それが軍にとってどれほどの愚行なのか、わかるか。軍の作戦行動にとっては脅威ですらあるんだぞ。われわれは敵と戦うために集まっているんだ。敵を打ち負かすために訓練するんだ。味方同士で争うなど、けっして許されることではない。いいか、もう一度言う。われわれは英国空軍だ。くだらない差別意識なんか、今すぐに捨ててしまえ。これは命令だ」

 

 若い士官だった。説教を終えると、今度はヴィダルに向き直った。

 「ちょっと兵舎まで来い」

 ヴィダルは覚悟を決めていた。処罰される。練兵場でのケンカ沙汰は重大な規律違反だ。その原因がどうであれ、自制できなかったヴィダルも罪に問われる。しかもかなり重い罪になるだろう。

 士官は先に立って歩いた。ヴィダルはあとにつづいた。

 

 悪いことをしたとは思っていなかった。だから背筋をピンと伸ばして歩いた。

 なぜ、ユダヤ人は差別されるのか。

 なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか。

 歩きながらヴィダルは、腹の奥底に再びマグマのうごめきを感じていた。

 

 

 差別や迫害は、これまでも無数に体験してきた。子どものころからヴィダルは差別を受けていた。

 17歳になるとファシストと戦った。みんなで戦って、撃退した。だが、差別するのはファシストだけではなかった。ごくふつうの市民が、ユダヤ人を差別した。

 なぜ、ぼくたちは差別されるのか。

 わからなかった。

 

 歴史の話は聞いていた。母や、周囲のシオニストたちは繰り返し、ヴィダルにユダヤ人の歴史を語り聞かせた。

 ユダヤ人は古代エジプトの時代、紀元前1500年ごろにはすでに迫害を受けていた。当時、ユダヤ人の身分は奴隷とされていた。それでもユダヤ人は人口を増やし、社会のなかでの存在感を高めていった。

 勃興するユダヤの圧力を感じ、反抗を恐れたエジプトの王(ファラオ)は「ユダヤ人の新生児を見つけたらすべてナイル川に投げ込め」と命令したという。

 ファラオの迫害から逃れるため、モーセがユダヤ人を連れてエジプトを脱出したのは、紀元前1300年ごろだと聞いた。それから約3300年という、途方もない時間が積み重なった。しかし、差別や迫害は収まらなかった。あげくの果てに、ホロコーストである。人類は、3000年もの歴史を積み上げてきたはずなのに、600万人にも及ぶユダヤ人の虐殺を止められなかった。

 

 なぜ“人類”は、“われわれ”を迫害するのか。

 答えはいくつも用意されてきた。この3000年の間に、無数の人々の手によって。だが、そのどれもが納得できなかった。

 

 

 兵舎に入ると、士官はヴィダルに向き直った。

 「すまない」

 ヴィダルは驚いた。士官が謝罪している。

 「どの世界にも、ああいう輩がいる。他人を差別することで、自分の存在を確かめるヤツらだ。どうしようもなく弱い人間なんだ。そうしないとヤツらの存在基盤が揺らぐ。他人を貶めること以外に、自分を認めることができない。自分の存在を信じることができないんだ。これからもきっと同じようなことがある。だけどまともにぶつかるな。おまえの怒りはわかる。だがな、あんな輩と同じステージに下りるんじゃない。下りてしまったらおまえの未来に傷がつく。むずかしいことかもしれないけれど、耐えてくれ」

 ヴィダルは理解した。士官の言葉を理解した。だが、納得はしなかった。腹の中のマグマは、再び高熱を発してうねり始めていた。

 

 士官に敬礼した。感謝の言葉は発しなかった。

 士官も敬礼を返した。

 ヴィダルは無罪放免となった。

 

 数日後、事件は再び起こった。士官の言うとおりだった。だが、今度の標的はヴィダルではなかった。イェシーバ(ユダヤ教の宗教学校)の生徒だった。

 まじめな青年だった。やせていて、とても軍隊には似合わない体格だったが、厳しい訓練にもなんとかついてきた。“徴兵”に一言の文句も言わず、英国人男子としての義務を果たすべく黙々と訓練に耐えていた。過酷な訓練を終えて兵舎に戻ると、いつもひとりで聖書を読んでいる。そんな青年だった。

 

 ヴィダルはその場にいなかった。夕食後、消灯までのわずかな時間をイェシーバの生徒はいつものように聖書を読んで過ごしていた。その周囲を、差別主義者たちが取り囲んだのだ。

 「ほら、立て。立ってここを出ていけ。そしてパレスチナへ立ち去れ!」

 

 暴力はなかったという。差別主義者たちは言葉で、言葉だけで攻撃した。イェシーバの生徒は無視して、聖書を読みつづけた。その態度が気に障るのか、ますます“口撃”は激しくなる。屈強な男たちに囲まれても、イェシーバの生徒は動揺を見せなかった。

 

 ヴィダルは、騒ぎのことを聞きつけるなり駆けた。仲間の兵士たちも駆ける。イェシーバの生徒がいる部屋に殺到する。

 差別主義者たちは、駆けつけた兵士たちのなかにヴィダルの姿を見た。直前まで生徒を嘲笑していた顔が、こわばった。あの“事件”は兵舎のなかに知れ渡っていた。

 あのとき、ヴィダルが見せた容赦のない攻撃性。それが恐怖を生んでいた。

 

 ヴィダルが一歩前に出た。差別主義者たちは拳を握りしめ、体制を立て直す。ヴィダルはかまわずさらに一歩前に出る。マグマはすでに燃え盛っている。すると背後から太い腕がからまってきた。振り返ると、兵舎一の暴れん坊がヴィダルの動きを止めようとしていた。

 「ここはオレに任せろ」

 暴れん坊が言った。太い腕がヴィダルを制した。その腕力は圧倒的だった。

 「おまえら、もう十分に楽しんだだろう」

 ヴィダルを背後に隠すようにしながら、暴れん坊は言った。

 「だがな、ここでやめとけ。もう一言でもおまえらの言葉を耳にしたら、病院に直行してもらうことになるぜ」

 

 差別主義者たちは、部屋を出ていった。

 

 ヴィダルはうんざりしていた。軍隊内で繰り返される愚かな“事件”の数々に、心底うんざりしていた。

 「オレ、ここを出ていくよ」

 ヴィダルは暴れん坊に告げた。

 「どこに行くってんだ」

 「長い散歩に出る。イェシーバの生徒をよろしくな」

 暴れん坊はじっとヴィダルを見つめた。そしてその決意が本物であることを察すると、太い腕で抱擁してきた。

 ヴィダルは荷物をまとめて兵舎を出た。

 

 駅をめざして歩いた。道を知っているわけではなかったが、だいたいの見当をつけて歩く。

 真っ暗だった。夜のイエーツバリーには街灯がなかった。頼りは月明かり。見上げると空には無数の星がきらめいていた。

 

 同じような夜があった。

 8年前も、ひとりで夜道を歩いた。ヴィダルは10歳のとき、孤児院を“脱走”したのだった。

 

 

 父が消えたのはヴィダルが3歳のときだった。父は外に女をつくり、家を出た。母とヴィダル、弟のアイヴァーは置き去りにされた。それは突然の出来事だった。

 家賃が払えなくなり、家を追い出された母は姉のケイティを頼った。イーストエンドのウエントワース通りにある古びたアパート。わずか2部屋しかない住まいに、ケイティは3人の子どもたちと暮らしていた。そこにヴィダルたち3人が加わる。それでもケイティはあたたかく迎え入れてくれた。

 

 だが、子どもたちが成長するにつれ、その暮らしにも限界が見えてくる。ヴィダルとアイヴァーは男の子。ケイティの3人の子どもはみな女の子だった。5人の子どもたちはひとつの部屋で寝起きをしていた。

 幼児のころなら何の問題もなかった。だが子どもたちは急速に成長していく。ケイティの長女が10歳になると、母とケイティは話し合うようになった。いつか、このまま一緒に暮らすわけにはいかなくなる。

 出した結論が、孤児院だった。母はユダヤ人のコミュニティに相談し、ヴィダルとアイヴァーをシナゴーグ(※)所属の孤児院(スペイン・ポルトガル系ユダヤ人児童養護施設)に預けることにした。身を切られるほどつらい、苦渋の決断だった。

 

 ヴィダルは5歳だった。

 3歳で父がいなくなった。そして5歳で母とも離れる。幼い子どもにとって、それ以上のつらいことがあるだろうか。しかも弟のアイヴァーはまだ3歳。孤児院に入るには5歳になるまで待たねばならない。つまり、ヴィダルはひとりで孤児院に入るのだ。

 母からその話を聞かされたとき、ヴィダルは恐怖にふるえた。家族から引きはがされ、たったひとりで見知らぬ地で暮らす。そんなことは想像もできなかった。

 だが、その日はやってきた。母はヴィダルの手を引いて、ローダデール・ロードの孤児院へと連れていった。大きな、鉄格子のような門の中にヴィダルを残し、枯葉が積もった歩道を去っていく。ヴィダルは泣き叫んだ。これは何の罰なのか。ぼくはどんな悪いことをやったというのだ。

 父が出ていったのも罰なのか。母と離れるのも罰なのか。全部、自分のせいなのか。以来、ヴィダルはそう思うようになった。こころの奥底でいつも、いつまでも自分を責め続けた。

 

 それから5年。ヴィダルはなんとか孤児院の生活に順応していた。弟のアイヴァーも加わり、10歳の日々を楽しく過ごしていた。だが、厳格な規則にはどうしてもなじめなかった。

 何かにしばられるのが苦手だった。こうしろ、と強制されるのがイヤだった。だからある日、“脱走”した。向かった先は、父のもとだった。

 

 

 ヴィダルはそのときのことを久しぶりに思い出していた。訓練所を脱走して歩く月明かりの夜道で、孤児院を脱走したことを思い出した。あのときの父の顔を。表情を。

 

 

 父は冷たかった。7年ぶりに再会した10歳のヴィダルに、一言も口をきかなかった。孤児院を脱走してきたことを知ると、黙ってクルマに乗せた。向かったのは孤児院。ハンドルを握る父の横顔。やさしさのかけらもない、不機嫌な表情。クルマが孤児院に着くと、門の前でヴィダルは降ろされた。そしてそのまま、クルマは走り去っていく。ヴィダルはそのテールライトを、いつまでも見つめつづけた。

 拒否された。父親に。二度までも。

 テールライトは消えていった。振り返ると、そこにはあの鉄格子があった。

 

 

 涙があふれていた。

 8年前の出来事を思い出し、ヴィダルは泣いていた。やはり自分は生きていてはいけないのか。生きたければ、際限のない罰を受けつづけるしかないのか。いや、それでもぼくにはママがいる。弟のアイヴァーもいる。ママはきっと受け止めてくれる。この気持ちを、マグマを、受け止めてくれる。

 駅にたどり着くと、ヴィダルはロンドン行きの切符を買った。

 

 家に着いたのは真夜中だった。やつれた表情で玄関に入ると、母が飛び出してきた。

 「やあ、ママ。帰ってきたよ」

 やさしく抱きしめてほしかった。すべてを受け入れてほしかった。だが、母の表情は怒りに充ちていた。

 

つづく

 

※脚注

 

【シナゴーグ】Synagogue

ユダヤ教の会堂。タナハ(旧約聖書)の朗読や解説を行う集会所。キリスト教でいう『教会』の前身。

 

 

 


 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal  Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書