sins日野達也プロデュース【人生を変える酸性ストレート】コロナ禍での挫折、失敗、示談金…どん底から生まれた極上の艶髪再生術!

 

ボブに特化したヘアデザインで、一躍その名を馳せた日野達也(ひのたつや)さんが、コロナ禍を経て、驚きの転身を遂げていました。それはオリジナルの酸性ストレートを駆使した髪質改善メソッドです。sinsの日野式艶髪再生術として、多くの悩める女性たちに極上の艶髪を提供。そしていよいよ全国展開を目指せる段階にまで到達しました。ただ、ここに至るまでは挫折と失敗の連続だったそう。紆余曲折の道のりを経た今の日野さんに、艶髪再生術が生まれるまでのエピソード、そして今後の展望をインタビューしました。

 


 

連れてきたスタッフを路頭に迷わせるわけにはいかない

 

そもそも僕は、美容師になる前は会計士を目指して大学に通っていたんです。在学中に読者モデルになったことがきっかけで、美容師が「人生を変える仕事」だと知り、美容専門学校に入りなおしました。

 

美容師になってからは挫折の連続。入ったサロンを数カ月で辞めたこともありました。読モとして最高峰の美容師さんの仕事を見ていたから、美容師として未熟な自分のギャップが大き過ぎたんです。「もう辞めて違う仕事に就こうかな?」と思っていたとき、「これを最後だと思って頑張ってみなよ」と僕を拾ってくれたサロンがあったおかげで、美容師を辞めずにすみました。

 

 

スタイリストデビュー後は「ボブの専門医」を掲げてInstagramで集客。年間で新規が600名から700名くらいいたこともあります。でも僕には突き抜けるほどのデザイン力はなかったし、ブランディング力もそんなになかったんですよね。

 

フリーランス美容師でしたので、コロナ禍にはさらに力不足を痛感しました。都道府県をまたぐ移動は自粛されたので集客が鈍るし、ボブだけでは単価を上げることが難しい。自分でこんなことを言うのは悔しいですが、お客さまは「どうしても僕じゃなければダメ」というわけでもなかった。テレビや雑誌に特集されているようなボブの匠たちには敵わないんですよね。

 

しかも、当時はシェアサロンにアシスタントを連れてきていたので、スタッフを路頭に迷わせるわけにはいかなかった。正直、ボブで食わせるのは無理だと思ったんです。自分の中でボブへのこだわりを完全に消して、髪質改善に振り切りました。実はそれまで6年間くらい髪質改善や毛髪理論の研究をしていたんですよ。

 

 

>苦悩の先にあった酸性ストレートという一筋の光

 

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