来店が1名だったオープン日。新卒採用や店舗のクローズで加速した経営の軌跡。―10年サロン「STRAMA」のブランディングストーリー前編

2008年〜2014年 経営目線確立期

スタッフが引き抜かれ、2店舗目の計画が白紙に。新卒を育てる経営にシフト

 

 

ギャラリースペースをクローズしても、席数が足りなくなり『STRAMA』は改装を加えてカット面を12席、シャンプー台を5つにまで拡張しました。その勢いで、2008年ごろには2店舗目を考えていたんです。

 

当時、前の会社で一緒に働いたことのある美容師の入社希望が相次ぎ、その中の数名が入社しました。キャリアのある子たちの中途採用だったので、すぐに即戦力になり、スタイリストとしても売れっ子になりました。

 

ところが、その中で一番キャリアのあるスタッフが、「辞めて海外に行きたい」と言ってきたんです。共に歩みだし、順調だったにも関わらず、突然の相談で戸惑いました。けれど、僕は承諾し、快く送り出したんです。

 

しかし、その数日後取引先から商圏内で店を出すという情報が入ってきて…。

彼のお客さまもぱたりとうちにこなくなり、その結果、2店舗目の計画は一旦見送ることになりました。

 

それ以降、スタッフは新卒採用のみにしていました。中途採用は経験があり即戦力になりますが、前のサロンでの風土や経験、技術の癖などが逆に弊害になることもあるんです。また共に仲間として働いたことのあるスタッフは、立場が変わり経営者と従業員としての関係性になることが、ときには経営の懸念点になります。

 

新卒は何にも染まっていない一方、育てるのが大変です。当時はとにかく、いろんなことを節約して削れるところは削って経費削減を行い、人件費を捻出していました。家族にはたくさん迷惑をかけたと思います。

 

いろいろ失敗もしましたが、当時は一つのターニングポイントとなった時期。僕の経営目線がしっかりとできあがったのはこのころかもしれません。

 

 

サロンもクリエイションするもの。表参道に移転し、調子が上向く

 

 

新卒教育も2、3年で軌道に乗り、売上を出すスタッフも増えてきました。そうして2011年の9月、表参道に2店舗目をオープンします。

 

震災直後だったので、「自粛ムードの中でお店を出すなんて」という声もありました。でも、もともと決まっていたし、家賃も下がったので、僕としてはここで勝負をかけるつもりでした。

 

当時は僕が表参道の新店の店長になり、代官山店は独立時からアシスタントとしてやってくれていたスタッフに任せていました。ところが、表参道店がオープンして1年も経たないうちに、その彼が家庭の都合で実家に帰ることになってしまったんです。代わりに店を任せられるスタッフもいなかったし、彼がいなくなれば利益も減る。どうするべきかすごく迷いました。

 

ただ、正直に言うと、表参道に店を出してからはそっちに夢中になってしまい、代官山店への愛情が薄れていたのも事実でした。僕はクリエイターで、サロンもクリエイションするもの。そんな気持ちで2店舗を続ける意味があるのか、自問自答した結果、代官山店はクローズすることに決めました。

 

1店舗に専念した結果、店の調子はよくなったと思います。表参道という激戦区に移転したことで、業界からの見られ方も変わって、セミナーなどの依頼も増えました。

スタッフも育ってきて売上を伸ばしていましたし、止めていた家具の販売に力を入れはじめたり、新しいボタニカルショップを立ち上げたり、別に持っていたグラフィックデザインの事務所も好調だったり。いろんなことで収益が上がり、うまく回るようになっていきました。

 

2011年、表参道にオープンした「CLARICA&STRAMA」。

 

>後編へ続く

 

プロフィール
STRAMA
代表/豊田永秀(とよだながひで)

愛知県出身。中部美容専門学校卒業。愛知県内のヘアサロンに務めた後、1995 年に上京し『DaB』入社。2002年JHA優秀新人賞を受賞。2005年に独立し、東京・代官山に『STRAMA』設立。2011年の9月に表参道へ2店舗目を出店。その後、代官山店はクローズし、表参道店に注力。2017年に東京・南青山へ移転。「CALVARi」とジョイントし新体制のもとに南青山でスタートする。

 

(取材・文/小沼理 撮影/河合信幸)

 

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