【RYUTA TOMONO】ロンドン・パリ・ミラノを拠点にコレクションや世界的ブランドの広告撮影、セレブ専属ヘア!?規格外のキャリアを経て生まれた変化

 

 

規格外のグローバルキャリアをもち、世界中のヘアメイクアーティストが憧れる「The IBI Awards 2023」ヘアアート部門で世界一を受賞したRYUTA TOMONOさんが初登場。都内有名ブランドサロンを3年で去り、自らキャリアを構築して技術を磨きあげたRYUTAさんは、20代後半でロンドンの有名サロンからオファーを受けて渡英。さらに渡英直後にロンドンコレクションのバックステージで認められてから、超最速で大躍進。ロンドン・パリ・ミラノの3都市を拠点に、欧州を飛び回る生活だったそうです。現地での暮らしぶりや帰国に至った心境の変化、そして現在の活動について聞きました。

 


 

有名ブランドサロンを3年で退社した理由

 

――もともと大学進学を目指して、屈指の進学校に通っていたそうですね。美容師を目指した背景には何があったのでしょうか。

 

きっかけを作ってくれたのは、母なんです。いつも髪質に悩んでいた母が、千葉の自宅から原宿のブランドサロンまでわざわざ通っていたんですね。僕が高校生になり、初めて一緒にそのサロンに行ったときに、そこで働くスタッフの雰囲気や店内のかっこよさに魅せられてしまって。その日のうちに「ここで働きたいんですが、どうしたらいいですか?」と美容師さんに聞いて、進路を決めました(笑)。それで美容学校に行って美容師免許を取得しました。





就活が始まり、予定どおりそのサロンの入社試験を受けましたが、当時の内定倍率は20倍。そこに入ることしか考えていなかったので、もし落ちたら学校を辞めて何かしら就職して、授業料を親に全て返そうと思っていました。サロンの最終面接の前日に、学校の就職センターに行って「今もらっている他の内定はすべて辞退します」と伝えたら、「正気か!?」と驚かれましたね(笑)。でも、本気だったんです。その覚悟が面接で伝わったのか、無事に採用していただきました。






――大胆な行動でしたね! 入社後は、どんなアシスタント時代だったんですか?

 

サロンの全盛期だったので、とにかく忙しかったです。時代的にはまだ体育会系だったので、朝4時から深夜1時まで練習していて体調も崩しました。ですが直属の先輩にはすごく恵まれて、いろいろと守っていただきましたし、今の僕があるのはそのときの先輩のおかげだと思っています。




アシスタント3年目を終える頃、すでにモデルカットもかなりの数を経験していて、これ以上アシスタントを続けるのは無駄だなと思い始めました。あと数年はアシスタントをするのが当然の流れだったので、今の実力でどこまでいけるのかを他のサロンで試してみたいと思って。それで退社することを決めて、地元に戻って地域密着型サロンに入ったんです。そのお店のオーナーには3年間どのような技術を身につけてきたのかを説明し、スタイリストとしての入社が叶いました。僕はとにかく客数を経験したかったので、まずは数を切って、そこから少しずつ自分のデザインを入れていこうと思っていましたね。





――その地域密着型サロンでは、前職のサロン名は隠していたそうですね。

 

今までブランドサロンの看板の下で働いていたので、全てを捨てた状態で勝負したかったんです。自分の名前も下の名前の「RYUTA」だけに変え、心機一転でスタートしました。そこから経験を積み上げて、自信がついたところで転職を重ねていって。千葉の船橋、東京の錦糸町、銀座、赤坂という感じで少しずつ西方向へ移り、そのあとにロンドンに行きました。






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