30歳までに世界各地に100店舗を。23歳のグローバルな新世代オーナー・京極 琉さんに迫る
12歳で中国・上海から来日。日本語が苦手で、周囲に溶け込むのもままならなかった中学、高校時代を経て、美容専門学校入学と同時に美容師のキャリアを超ハイスピードで進みはじめた23歳のサロンオーナー京極琉(きょうごくりゅう)さん。
日本のサロンに勤務後、半年間のロンドン留学を経て、昨年赤坂に『Salon Ryu』をオープン。そのとき、弱冠22歳。さらに今年の10月には中国・武漢に2店舗目をオープン予定だそう。夢は「30歳までに、世界各国に100店舗」と語ります。
京極さんがなぜこれほどまでに壮大な夢を描けるのか。そのバックグラウンドを探ります。
日本語がわからないまま日本に。空白の6年間が始まる
母の仕事の都合で、12歳のときに上海から日本にきました。日本語がまったくわからない状態で来日したのもあって、日本人の友だちもあまりつくれなかった中学、高校時代。特に夢や目標もなく家でゲームをしたり、ダンスをしたり、中国人の友だちとばかり遊んでいました。
でも当時からなんとなく人前に立つ仕事がしたい、とは思っていたんですよね。
例えばダンサーとか、歌手とか。美容師もその延長線上に浮かび上がった選択肢でした。お客さまの前でキラキラ輝けて、しかも一生続けられる仕事。努力次第でさまざまな道に進めそうなことも魅力でした。
そんなわけで高校卒業後は、美容専門学校の夜間課程に進学。それと同時に美容室でアルバイトもはじめました。はじめは日本語もまだ得意ではなく、かなり苦労しましたね。アルバイト先では敬語や日本のマナー、日本人ならではの人間関係の築き方など、技術以外にもたくさんのことを教えていただきました。
大変でしたけど美容師になると決めたからには、早く誰にも負けないプロフェッショナルになりたかった。僕の中で「空白」になってしまった中学、高校時代の6年間を、一気に巻き返したい。そんな思いもありました。
毎日100枚の写真をチェック。それが感性の礎に
昼間は美容室で働いて、夜は専門学校に行く日々。そんな生活の中で「“みんなと一緒”で満足していたらダメだ」という焦燥感に似たものに、いつも駆られていたように思います。
そのころ自分に課していたのは、毎日100枚の写真を見て「いいな」と思ったものを保存すること。いろんなものを見て自分の感性を養うことが目的でした。アシスタントの立場でしたがサロンに無理を言ってカットセミナーに行かせてもらったり、自分の中で気になる美容師さんに連絡を取って、プライベートレッスンをしていただいたりもしていました。
美容専門誌やテクニック本を購入して、技術の研究も徹底的にやっていました。いかに過去を知り、知識を多く持っているか。これから自分のスタイルを築いていくために、それも大切だと感じていました。
先輩たちの中には「(まだアシスタントなのに)無駄じゃないか」という人もいましたね。でも僕には彼らに止められる理由がわからなかった。後悔なく全力でやる。それが僕のやり方だし、今でもそれでよかったと思っています。
クリエイションをはじめたのもアルバイト時代です。アルバイト先のサロンでは誰もやっていなかったので、他の美容師さんの作品写真を見て、見様見真似でスタートしました。僕が目指していたのは、確かな技術を持ち、クリエイションもできる「プロフェッショナルなアーティスト」という美容師像だったんです。