「売名行為」と言われても揺らがなかった。『五番街』はなぜ貧困家庭の子どもの無料カットを創業から40年続けているのか
創業から約40年の間、経済的に厳しい家庭の子どもの髪を無料でカットしている那須塩原の美容室『五番街』。代表の大倉太喜生(おおくら たきお)さんは、自身が子どものころに親との死別などで苦しい生活をしていた経験から、無料カットをはじめたと言います。しかし、この活動を周囲に理解してもらうまでには時間がかかったそう。
そこで今回は、大倉さんの子ども時代や無料カットをはじめるまでの道のり、無料カットを長年続ける理由、そして美容室が社会貢献活動を行う必要性を語っていただきました。
バイトと看病をしながら学校に通った中学時代。活動の元となった自身の体験
僕が経済的に恵まれない子どものための無料ヘアカットを行っている理由は、僕自身の生い立ちが関係しています。
僕は、栃木県の那須という田舎に生まれ、親や兄弟と暮らしていました。もともと裕福な家庭ではありませんでしたが、中学1年生のときに父が脳梗塞で半身不随に。さらに、中学3年生の春に母がガンで亡くなり、明日の食べ物にも困るような状況に追い込まれました。
当時は学校へ行く前に新聞配達や牛乳配達のアルバイトをして、帰ってきて弟の世話と父の看病。それから10時ごろにようやく学校に行って、放課後はまた看病やアルバイトという生活でしたね。
それでも勉強は得意で、小学校1年生から中学3年生まではクラス委員も務めていました。読書が好きで、時間がないから学校の登下校時に歩きながら読んだほど。図書室の本はすべて読んだので、教頭先生に「新しい本を買ってください」とお願いしたら、「辞書でも読め」と言われました(笑)。実際に6年生のころはずっと辞書を読んでいましたね。「あ」という一つの母音にもたくさんの漢字や意味があるのがおもしろくて、夢中で読んだのを覚えています。
進学を諦め上京した先で見つけた美容師のおもしろさ
中学3年生の3学期に父が他界し、卒業後は上京して働くことに決めました。弟は異母兄弟が面倒を見てくれることになったのですが、食費もかかるし、自分までお世話になるわけにはいかない。自力で生きていかなくてはと思いました。
当時は進学できない自分が悲しくて、グレたこともありましたね。成績はいいのに高校へ行って勉強できないことが悔しくて、親父の残したバイクで校庭を走ったりしたことも。でも、グレたのはその一瞬だけ。そのあとは自分の力で生きようと決めて、東京の床屋に住み込みで働きながら理容師の資格を取りました。学校でも図工が得意だったし、もともと手を動かすのは好きだったんです。
ところが、資格を取ってしばらくするとその床屋が閉店することになりました。それで今度は美容室に勤めてみようと思って、また修行をしながら美容師の資格を取ったんです。
美容師の仕事はおもしろくて、どんどんはまっていきました。当時の男性は安定した髪型を求めるものでしたが、女性は毎回違うヘアスタイルを求めていましたから。新しい提案をすることは、大変だけどやりがいがありましたね。勤めたのがコンテストに積極的な美容室だったので、技術的にも鍛えられました。