Side Burn 太市 オリジナリティの、魔力。【GENERATION】雑誌リクエストQJ2002年4月号より
練習をつづけた、七年間
クリエイターは、練習によってつくられる。
クリエイションを支えるのは、練習によって築かれる技術である。
その事実に、人はなかなか気づかない。
凡人は思う。クリエイターと自分とは違うのだ、と。そう思い込んでしまう。才能のある人は初めからその才能がきらめいている、と。
ライターの世界でいえば、最初から小説が書ける。スラスラと、書ける。
だけど私はそうではなかった。
20代のころ、何度か小説にチャレンジしたことがある。だが、いずれも跳ね返された。完成すらできなかった。それどころかほんの数行書いただけで挫折してしまうのだ。
イメージは、あった。だけどそれを文章にはできなかった。文章に変換し始めた途端、イメージが音を立てて崩れていくのだ。
私には才能がなかった。それは決定的な事実だった。
以来、私は小説を封じ込めた。こころの奥底に、閉じこめた。私はインタビュー記事を生業に定めた。
ところがその封印を解く鍵を、ある人がくれた。
その人は作家だった。直木賞をとったばかりの、しかしベテラン作家だった。ある企画で、私はその人にインタビューした。そのとき、彼は次のように語ったのだ。
『小説というのは芸術とはちょっと違うんだよね。技術的な側面が強いものでね。自分の感性というか、書こうとしているものを表現するためには文体だとか構成だとか、その人の人間に対する見方だとか、そういう骨格を上手に組み上げて、ま、家を一軒建てるようにやるわけだ』
『だからものすごくいい感性を持ってたり、いいテーマを持っていても、家を建てる大工みたいな技術がないとうまく描けないわけ。世の中にはおそらく、ものすごくいい感性を持っているヤツはいると思うんだけど、技術がないばかりに小説にできない人というのは多いと思うよ。でね、その技術を修得するには非常に長い期間がかかるのよ。自分のスタイルというものをつくるまでにね。だから若いころ小説を書こうと思ってた人も、いつかやめてしまう。それはみんな表現するための技術を修得する時間に耐えられないんだな』
小説を「ヘアスタイル」に、文体を「カット」に、構成を「カラー」か「パーマ」に置き換えて読むとそれはまさしく美容師の仕事そのものではないか。
その小説家の言葉を、私は太地との対話のなかで思い出していた。
太地は言ったのだ。
「技術者になっても最初の2、3年は厳しいわけじゃないですか。お客さんが帰ってこなかったり。そんな日々がつづくんですよ。で、なんでなのかな、と。ずーっと、悶々とする日々がある」
技術者になるまでは、“テスト”に受かることが目標になる。
しかし、晴れて技術者になると、そこからは全く別の“テスト”が始まる。
それはお客さんがつくか否か。帰ってきてくれるか否か。
それは美容師としては、究極の“テスト”である。
「もともとお客さんとのコミュニケーションがそんなにうまくなかったんですよね。調子よく話せるわけじゃないし。黙々とつくっちゃうタイプだったから。それがちょっと重かったりとか。ま、結局はお客さんにとって、自分がちょうどよくなかったんじゃないかな」
ちょうどよくなかった‥‥。
「うん。重要なのはちょうどよさだと思うんですよ。お客さんという素材に対して何をチョイスして、どうデザインするか。お客さんが望んでる範囲のなかで、ちょうどいいところに落としこめるか」
それができるようになるためには、何が必要なのか。
「練習と経験。だから技術者になっても練習してた。お客さんをつかめる、という自信ができるまではね」
結局、本当の意味での自信を持つまで、彼は入社後7年という日々を必要とした。
甘ったれの、日本人
ようやく自信を持って仕事に取り組めるようになった彼には、あたらしいステージが待っていた。
店長、である。しかも青山店の店長。
『SHIMA』を代表する旗艦店のスキッパーとして抜擢されたのである。
太地は当時、28歳だった。
「もう絶対にイヤだった。キライでしたから。自分のやりたいペースでやりたい方だから。人の上に立つとか、まとめるなんてことには興味もなかった。だから絶対やりたくない、と言ったんですけどね。もう決まったことだから、と。強制的に」
彼は渋々引き受けた。店舗の管理・運営という仕事に、取り組んでみた。だが、2年が限界だった。
「店長を辞めさせてください、と」
彼は『SHIMA』を辞めるつもりはなかった。店長を、辞めたかったのだ。
彼はひとりの美容師として、存分に働きたかった。
店長は、いわば中間管理職である。上からの指示を下に伝え、下からの意見をまとめる。そんな仕事には向いてない。そう思ったのである。
彼の意を受けて、『SHIMA』は店長から外した。と同時に、あたらしくオープンした南青山店に彼を移した。そこはトップスタイリストだけを集めた実験空間。店長を置かない組織をめざしていた。
「でもね、結果的に店長みたいなことをやってるんですよ。ただ、そこでは自分のやり方でやってみたんですね。上の言葉を下に伝えるというよりは、自分のやり方で教育みたいなものをやってみたんです」
手探りの手法だった。だが、その手法が成果をあげる。
「あぁ、と。これでいいんだ。人ってこうやって育っていくんだ」
その実感が、彼の意識に初めて“独立”という概念をもたらすことになる。
ならばその実感とは何か。
彼が試してみた手法とは、どのようなものなのか。
「つねづね思ってたのが、美容師は過保護だな、ということだった。そのころニューヨークが好きで、よく行ってたんですよ。で、若者たちと出会うわけですよね。するともう、目が違う。それは完全なる実力社会だから。だけど日本は過保護。まだこれはできない、これもできない。そこから始まっちゃう」
「だからまず、できること、できそうなことを、上の人が用意してあげる。お客さんに入り始めたころも、お客さんを選んで入れてあげるとか」
「でもぼくは違う。入れるんだったら、どんなお客さんでも入れる。やらせちゃう。突き放す。たとえば経験半年のコに、ハサミ持たせちゃう。カットモデルを連れてこさせる。とにかくつくれ、と。ある意味、乱暴なやり方だけど、つくって考えろ、と」
彼はようやく、語り始めた。
「守らない。保護しない。ライオンが子どもを谷底に突き落とすみたいなね。あとは自分で責任をとれ」
若いコたちには、ちょっと厳しい。
「うん。でもね、自分もそういうことが好きなんですよ。いちいち言われたくないし、自分で責任とったほうがいい」
それは美容師1人ひとりがプロだから、ということなのか。
会社員だったら会社が研修を用意する。段階的に、大切に育てていく。
だけど美容師はプロ。だから自分で考えろということなのか。
「ま、簡単に言うとそういうことですよね。そのくらいの根性がないとダメじゃないですか。それに立ち向かうような気持ちがないと。やっぱり受け身じゃダメなんだから。結局そこからバーンと出る自分づくりみたいなものが、日本人には必要だと思ったのね」
「子どもたちは結局ずっと守られてるじゃないですか。学校でも、受け身の教育をずっと受けてるから。自分で自己表現したりとか、自分の意見をバーンと人前で言ったりとか、イエス・ノーをはっきり言ったりとかがヘタじゃないですか。そこから基本的に変えていかないとダメだなと思ったのね」
あぁ、と私は思った。それは会社でも同じだ、と。
もし自分が経営者だったら、こんなにていねいには教えない。こんなに研修を用意しない。企業に取材をしていると、そう思うことがたびたびある。
学びたい人は自分で学ぶ。だから伸びるのだ。
逆に教わることを期待する人は、伸びない。
教わってない、などと言い訳する人は通用しない。
なぜなら会社は学校ではない。ビジネスという戦闘の、最前線なのだ。
「だよね。だから日本はダメなんだ。みんな甘ったれてる」
いや、でもだからこそ日本は“カイシャ”という装置をつくったのだ。だれもが平等に、果実を分かち合う装置。
つい10年ほど前まで、日本は世界で最も成功した“社会主義国”だった。
しかし、太地のつくった『サイドバーン』は、自由主義である。資本主義である。そのギャップに、若者たちは耐えられるのだろうか。
「耐えられる人しか採らない。だから辞めない。食らいついてくる。そういうふうに最初っからやっていくと、それが当たり前の世界になる。ダメだなというコ、筋が一本通ってないようなコは採らない」
その過激な、しかし本当は真っ当な手法を、彼は南青山店で試してみた。その結果、“イケる”という実感を得たのである。