TONI&GUY 雑賀健治 見果てぬ夢をデザインする男たち。【GENERATION】雑誌リクエストQJ 1999年9月号

 

美容界が用意した次なる“目標”

 

 

サスーンという“台風”が、日本に上陸したのはそのころである。

彼は美容雑誌で、英国・ロンドンのサスーンのスクール情報を見つけると、すぐに手紙を出した。

辞書を片手に英語で書いた入学願いである。

数週間後、彼のもとにはスクールの案内が届いた。

しかし、入学は翌年の夏までできない、という。

それほどサスーンのスクールには世界中から入学希望が殺到していた。

 

彼はすぐに入学申請をした。送金も完了した。

そして翌年、入学許可証が届くと、彼はすぐにロンドンへと旅立った。

いよいよ念願の“海外へ”、である。

 

彼をここまで突き動かしてきたものは、“目標”だった。

“夢”であった。

彼は「海外へ行きたい」という一念のもと美容師をめざした。

練習を繰り返し、半ば強引にキャリアを積み重ねてきた。

だからこそロンドンの地を踏んだ瞬間に、

彼を支えてきた“目標”は消滅したとも言える。

 

だが、世界の美容界は次の“目標”を用意していた。

技術、である。

 

「頭を後ろからガーンと殴られたような衝撃でした。それまでやってきた技術とは天と地ほどの開きがある。だからロンドンでスクールに入った途端、自分の技術、全部忘れました」

 

彼はサスーンで教わる技術を誰よりも真剣に学び、身に付けていった。

モデルの髪を自由に切らせてもらえるようになると、彼は新たに学んだ技術を精一杯生かしてスタイルをつくった。

その出来映えは、日本にいたころよりも数段、美しかった。

 

と、その時である。

彼の作品を見たサスーンの講師が、スタイルを壊していくのだ。

 

彼のスタイルは全体的に柔らかく、ふわっとした感じに仕上がっていた。

だが、講師はそれをもっとシャープに、直線的なスタイルに手直ししてしまうのである。

 

「あれっ、と思った。当時は若かったから突っ張ってたところもあるけど、自分の作品には自信があった。確かにサスーンの手法はわかるし、すごいと思う。だけどぼくはぼくのスタイルをつくりたかった」

 

だが、直される。

何度つくっても、直される。

 

次第に彼は疑問を感じ始めた。

「最初はパターンとか、切り方とか、セクションの取り方とか、技術的な部分を習得するのに必死じゃないですか。それができるようになると、今度はラインとか、シルエットとかを考え始める。そこに自分の個性が出てくる」

 

「ベースとなる技術を完璧にできるようになると、自分の左手の指加減で、いくらでも軽くしたり重くしたりできるようになってくる。微妙にね。板前さんで言えば、最後の塩加減だったり、味加減だったりする。それが個性じゃないのか、と」

 

9カ月間のスクールを卒業した彼は、就職先を探し始める。

日本に帰ることなどハナっから考えていない。

 

彼が、『TONI&GUY』の作品を見かけたのは、このような時期であった。

雑誌でたまたま見かけた無名のサロン。

だがその作品に彼は、

彼が求めていた柔らかいラインと、

なにかそこにうごめく意志のようなものを、発見したのである。

 

ここでようやく、冒頭で述べた採用試験につながる。

2人目のモデルを、

まさに柔らかいシルエットに仕上げた彼を、『TONI&GUY』は採用した。

 

 

試行錯誤と普遍化への情熱

 

『TONI&GUY』は、雑賀健治が入って半年後に一気にブレイクした。

ある雑誌に発表されたブルーノの作品が大ヒットしたのだ。

 

当時、4兄弟に雑賀ともう1人の技術者、合わせて6人しかいない時代に、ロンドンのサロンの前には人々が行列をなした。

彼らは郊外の2店舗を閉め、

ロンドン中心部のサロン1店舗にパワーを集中することで対応した。

 

『TONI&GUY』がつくるスタイルは、一言でいえばエレガント。

女性をいかに魅力的でセクシーにするか。それがテーマである。

そのテーマに沿って、さまざまな先進技術が編み出された。

そのすべては4兄弟と、雑賀によって創り出されている。

 

たとえば“タオルドライ”と“フィンガードライ”。

これは当時の英国でストライキが頻発したことから生み出された技術である。

 

電力会社がストライキを始めると、停電となる。

当然、サロンではドライヤーが使えなくなる。

そこでしょうがなく始めたのがタオルドライであり、

フィンガードライであった。

 

「停電する前には3回くらい電気がウインクするんです。つまりついたり消えたりする。それが合図なんです。で、その数分後に停電する。その間にぼくらは準備するんです。タオルを用意して、手で乾かす。するとね、なんともいえないいい質感が出るんですよ」

 

「向こうの人はウエーヴがありますから、ふわっとなる。で、そこに整髪料が必要となるわけです。自然乾燥は髪の自然な流れを強調しますから、たとえば今でいうジェルやムースがあればもっときれいに仕上がる。そこでいろんな工夫を始めるわけです」

 

彼らはまず、人それぞれの毛流を重視したスタイルを完成した。

その毛流をさらに強調するために、ジェルやムースを独自に開発していくのであった。

 

試行錯誤の連続。

そのプロセスにはさまざまな逸話が残っている。

 

ある日、スタッフの一人が「すごいジェルがある」といって使い始めたジェル。それは滑りがよく、軟らかく、まさに髪にうってつけであった。

どこで見つけたんだ、と聞くと、そのスタッフは小声で次のように囁いた。

「コンドームのゼリーだ」と。

 

また彼らはカットの技術も次々と開発していった。

 

「ダブルカットもそのひとつです。今はもう技術が確立して、セクションをとって下を短くしておいて、上からかぶせるけれども、最初はただ下から切り上げてたんですよ。で、ある一定のレベルにきた時に、下げて切ったんですよ。そうすると段差ができる。それがかっこよかったんですね」

 

「そこから、どこでセクションをとって、下げた方がいいかというのを試し始めた。試行錯誤ですね。骨格上、どこか。どこがカッコイイか。バランスがいいか」

 

単に、彼らがサスーンのつくるスタイルのみに反旗を掲げていたら、

シルエットやラインの仕上がりだけで違いを強調しようとしていたならば、

現在のような“世界の『TONI&GUY』”は、恐らく存在していない。

彼らはそのシルエットやラインを生み出す技術を、試行錯誤の上に編み出し、普遍化しようとした。誰にでも再現できるシステムをつくった。

だからこそ世界中に『TONI&GUY』の名前と技術が広まったのである。

 

「エデュケーション(教育)なんです。たとえばダブルカットを教える。その時に、感性のいい人はわかるんです。どこでバランスがとれるか。だけどそれを100人、200人に教えるとなると、そんなに感性のよくない人もいるわけです。だから、その人たちのレベルを上げていくためにはどうしたらいいか。誰にでもわかる方法を編み出さなければならない。ここでセクションをとりなさい。ここは切りなさい。ここで上からかぶせなさい、と。それを覚えれば、誰にでもバランスのいい商品がつくれるわけです」

 

「他の業種みたいに、デザインしたら工場でつくって、全国の店に商品として流すわけにはいかないでしょ。つくるのは現場の美容師さん。美容師さんが教育を受けて、それをお客さんに対して再現して、商品として売ってるわけですから」

 

「だから1店舗ならいいけれど、将来大きくしていって世界に『TONI&GUY』のヘアスタイルを提供しようとすると、教育がきちんとしてないとバラバラになる。だから基本はエデュケーションだ、と」

 

 

夢が彼らを牽引した

 

彼らは何よりもサロンの現場で、誰もが再現できる技術を確立しようとした。

ポイントを絞り、より簡単な手法に変換し、教わった翌日からサロンで再現できる技術。

 

「作品をデザインする時は、そんなことは考えてないですよ。つくってみて、カッコイイかどうか。それがすべての基準になる。その次に、じゃあこれをどうやってみんなに教えていくかを考える。セクションのとり方、切り方、仕上げの方法。つねにサロンで簡単に再現できるまで、落とし込んでいく。その技術を、時間をかけて蓄積してきた。それがウチのスクールで教えている技術なんです」

 

今の、つまり現在の雑賀健治の話はスラスラと頭に入ってくる。

なるほど世界にアカデミーを有する『TONI&GUY』の技術とは、このようにして生まれてきたのか、と。

だからこそ世界中で受け入れられ、成長をつづけているんだ、と。

 

しかし、である。

彼の言葉は過去を振り返ってもいる。

彼の話は、ロンドンに1店舗しかなかったころからスタートしているのだ。

わずか1店舗しかなかったころ、すでに彼らは技術を100人、200人に正確に伝えていくための試行錯誤を開始していた。

その事実に気付くと、愕然としてしまう。

 

「夢、なんですよ。目標なんです。ぼくは『TONI&GUY』に入りたてのころから、トニーと話をする機会をたくさんつくった。それはトニーの髪をカットすることで得られるんです」

 

「営業中は忙しいから無理ですよね。だから彼の髪を切るのは営業が終わってからになる。すると他のスタッフは嫌がるんですよ。時間外ですから。しかもオーナーの髪でしょ。決して多くはない髪でしょ(笑)。気をつかうじゃないですか」

 

だからこそ彼は手を挙げた。

トニーの話を聞くために、手を挙げた。

するとトニーは、

日本からやってきた若者に、大いなる夢を語って聞かせるのだった。

 

「ケンジ、俺は俺たちのスタイルを世界に広めたいんだ」

 

当初、雑賀にはその言葉のイメージがつかめなかった。

怪訝な顔をすると、トニーはいった。

「ケンジ、お前の夢はなんだ」と。

「ぼくは、そうだなぁ。ショーのステージに立ったり、雑誌に作品を発表したり、そんなクリエイティヴに仕事がしたいなぁ」

「もっともっと、その先のゴールはなんだ」

「うーん、やっぱり将来は自分の店を持って……」

「いいか、ケンジ。夢というのはできる限り大きく持つんだ。大きな夢なら、その50%が実現しても、大きいだろ。だけど小さな夢だったら、100%達成したって小さい。そうじゃないか」

 

トニーは、1店舗の時から世界を見ていた。

いくらサスーンが世界へ出ていたとしても、彼らと我々はニュアンスが違う。

目的が違う。つくるスタイルが違う。

 

「だからこそ我々は、サスーンに追いついて、追い越せる」

 

それが、当時から彼らの合い言葉になっていた。

だからこそ彼らはエデュケーション、つまり教育を最重要視していたのである。

 

>アジア全体にスタイルを広める拠点

 

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