TONI&GUY 雑賀健治 見果てぬ夢をデザインする男たち。【GENERATION】雑誌リクエストQJ 1999年9月号

 

雑誌「リクエストQJ」創刊以来の看板企画「GENERATION(ジェネレーション)」。

昭和〜平成〜令和と激動の美容業界において、その一時代を築いてきた美容師さんを深堀りしたロングインタビューです。

300回以上続いた連載の中から、時を経た今もなお、美容師さんにぜひ読んでいただきたいストーリーをピックアップしていきます。

今回は1999年9月号から、『TONI&GUY』の雑賀健治さんのインタビューをご紹介。1974年にイギリス・ロンドンへ渡り、当時1店舗だった『TONI&GUY』を世界的なサロンへと成長させた健治さん。後に日本で『TONI&GUY』のフランチャイズ店を設立し、トップサロンへと押し上げます。2012年7月11日に、その生涯を閉じるまで国内のみならず世界の美容シーンに多大なる影響を与えた雑賀健治さんのストーリーをぜひご覧ください。

 


 

1998年10月。

ロンドンで巨大なディナーパーティーが開催された。

参加人数は約2500人。

そのすべてが、あるひとつの美容室の名前を看板として掲げた

サロンのスタッフたちだった。

その名は『TONI&GUY』。

 

35年前に、イタリア人の4兄弟がロンドン郊外に開いた小さなサロン。

15年前でもまだ、ロンドンに2店舗しかなかったサロン。

それがわずか10年ほどの間に、驚異的な成長を遂げる。

 

その軌跡には、3つの秘密が隠されている。

エデュケーション(教育)。

ドリーム(夢)。

そしてファミリー(家族)。

 

この3つのキーワードが、彼らの『奇跡』をデザインしていた。

中でも“教育”は、最も大きな要素である。

彼らは戦略的に“教育”を最重要視していた。

その証拠に15年前、わずか2店舗しかなかったころ

すでに彼らは“アカデミー”という名の

独自の教育機関を持っていたのだ。

 

 

サスーンに挑んだ4兄弟

 

約2500人が一同に会した『TONI&GUY』のディナーパーティー。

創業者の四兄弟が座るテーブルに、雑賀健治も座っていた。

隣りは長男のトニー。

雑賀は会場を見渡してつぶやいた。

「すごいねぇ」

トニーは答えた。

「夢のようだ……」

それは創業メンバーである彼らにとって、まさに「夢のような」光景だった。

 

 

雑賀健治が『TONI&GUY』に参加したのは、1970年代半ばのことである。

当時、『TONI&GUY』はまだ無名のサロンだった。

店舗数は3。

ロンドン郊外の2店舗を成功させた4兄弟は、

いよいよロンドンの中心部へと進出。

その時、ある雑誌に彼らの作品が掲載された。

その作品をたまたま目にした雑賀が、電話をかけたのである。

「働きたいから採用してくれないか」

雑賀は、“ヴィダル・サスーン”のアカデミーを卒業したばかりの若者だった。

 

採用試験は、モデルの髪を切ることだった。

雑賀は、教わったばかりのサスーンの技術で、カットした。

すると三男のブルーノが言った。

「これはウチのラインとは違う」

 

 

当然である。

当時、世界を席巻しつつあったサスーンの技術に、ラインに、公然と反旗を翻して闘おうとしていたのが『TONI&GUY』だったのだ。

 

当時の主役はなんと言っても“ヴイダル・サスーン”だった。

世界中から美容師が集まり、サスーンの技術を学ぼうとしていた時代。

雑賀健治もその一人だった。

 

そのサスーンに、わずか3店舗を経営するイタリア人の4兄弟が闘いを挑む。それは物語のプロローグとしては、痛快なエピソードである。

だが現実の社会では、全くの絵空事。

まさしく夢物語に過ぎなかった。

 

 

ブルーノは、試験を受けにきた日本人の若者に、ある作品を見せた。

「こういうスタイルはできるか」

その作品は、柔らかなラインを形成していた。

雑賀が雑誌で見つけたものと同じライン。

雑賀はすぐに、2人目のモデルに挑戦した。

実はその柔らかなラインこそ、

雑賀が自分の個性として主張したかったスタイルだったのである。

 

 

海外に行くために美容師になった男

 

雑賀健治は「海外に行くために」美容師の道を選んだ。

子供のころ、商社マンだった父親が撮影してきた海外の街の8ミリフィルム。あるいは高校時代、雑誌で見つけた“須賀勇介”という男性美容師のニューヨークでの活躍。

この2つが、

進学校に在籍し、大学受験が自らの道と定めていた彼の人生を変えた。

 

「大学行って何するんだろう、と。みんなが進学するから自分も、でいいのか」

 

大学受験に失敗した直後、彼は「美容師になろう」と思った。

「美容師になって、海外へ行こう」

 

美容学校を卒業すると、彼はとかく小さな美容室を選んで就職した。

1年間のインターンを経て国家試験に合格すると、すぐに次の店に移った。

それもなるべく小さな店である。

その店に面接に行った時、彼は堂々と答えていた。

「ぼくは技術者です。なんでもできます」と。

 

それから2年間、彼は毎日冷や汗をかきながら、なんとか技術者として仕事をつづけた。

すると本当に「なんでもできる」ようになってしまう。

 

その間、彼は懸命に練習と研究をつづけた。

朝は営業前に。営業中はお客さんの頭で。夜もまた練習。火曜日は身銭を切って講習に出かけ、その日のうちに教わったことを夜遅くまで反復練習。

 

そして再び、次の店へ。

3店舗目となるその店で、彼は“店長”として採用されるのである。

その時、彼はまだ23歳であった。

 

美容界が用意した次なる“目標”

 

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