of HAIR 古里オサム 顧客とスタッフの“セイカンタイ”・・・? 【GENERATION】雑誌リクエストQJ1992年11月号より

「リンスを自宅で使わない」という一言

 

しかしなぜ、彼はここまで自然にこだわり、天然成分にこだわるのだろう。

環境や優しさを語る彼。その話には最近マスコミで騒がれている“エコロジー”などよりももっと深く、また長いキャリアが感じられる。

 

「実は10年ほど前にね、六本木で雇われ店長をしていた時にショックを受けたことがあったんです。それが原点、かな」

 

彼はその頃、ある美容室の六本木店で店長を務めていた。

ある日、常連の男性客が彼に話しかけた。

 

「古里さん、ぼくはね、家では絶対にリンス使わないんですよ」と。

 

まだ20代前半の若い店長・古里オサムは驚いて尋ねた。

 

「どうしてですか」

 

すると男性客は逆にこう聞いてきたのだという。

 

「リンスにはどういう成分が入っているのか知ってますか?」

 

「知らなかったんです。それがショックでね。ほんとに恥ずかしかった。プロとして顔から火が出る思いでね。それからなんです。いろんな勉強を始めたのは。それにね、ぼく自身がもともとアレルギーでね。自分が使えないものを、何でお客さまに使えるんだ、と。そう思った時にね、これは本気で勉強しようと思った」

 

彼は化学の勉強を始めた。

と同時に、将来自分で店を持った時には必ずオリジナルシャンプーとトリートメントを開発しよう。そう心に決めたのである。

 

「独立したのがちょうど30歳。それから約3年ほどして、2店舗目を出す頃に最終的な商品化の研究を始めた。開発目標を立てて、項目をいくつも挙げて、知り合いの工場に頼んだりしてね。サンプリングをつづけた。こういうものって、こだわり始めるとどんどんのめり込んでいくでしょ」

 

彼の挙げた開発項目はかなり厳しいものであったらしい。

たとえば“トリートメントはハンドクリームとしても使えること”という項目もあった。

 

「当然です。だっておかしいじゃないですか。皮膚と髪の毛を改善するものが、何でハンドクリームとして使えないんですか? 頭皮ってとても大事なものでしょ」

 

彼のこだわりの発想が、開発をますます困難にした。

が、それらの項目をすべてクリアして完成したシャンプーとトリートメント。それは大きな反響を呼んだ。

雑誌にもテレビにも取り上げられ、大手商社が「一括で買い上げたい」と打診してきたこともある。

 

「せっかく開発した商品ですから、多くの人に使ってもらいたいと思った。ただね、商社との取引には億単位の初期投資が必要となるんですね。また商社の先には一次問屋、二次問屋という流通機構があって、それぞれの段階でマージンが乗せられていくから小売価格は高くなる。それらが面倒臭くなってね。やめちゃった(笑)」

 

かくして彼が開発した画期的なシャンプーとトリートメントは、メジャーな流通機構に流れることはなかった。

今、その商品が欲しいと思ったら、直接『of HAIR』に赴くか、通信販売で購入する以外にない。しかしそれでもその商品は、着実に売上を伸ばし、静かに浸透しつつある。

 

「結局ぼくは商売人じゃなくて、技術者だから・・・。しかも化学じゃなくてデザインの技術者。化粧品屋になるつもりはないんです」

 

 

鹿児島の母親が彼の現在までの道を開いた

 

激戦区の自由が丘にOnly Oneの美容室をつくり、さらにオリジナルのシャンプー、トリートメントを開発して注目を集めるナチュラリスト・古里オサム。

いつも前向きな彼は、いかにして現在に至ったのか。

そのあたりを聞いてみると、意外な言葉が返ってきた。

 

「実家が理容室だったんです。だから後を継がせるつもりで東京に出された。ただね、ぼく自身は当時、あんまりやる気はなかったんですよ(笑)。どちらかというと教師に憧れていて、歴史の先生になりたかった。だから高校を出て、鹿児島から東京へ出てきて、お店に入っても半年くらいは荷物を半分、開けずにいたんです。いつでも帰れるようにね(笑)」

 

彼が入った東京の店とは、理容師である母親が勧めた向原(向原一義・『エクセル』代表)の店だった。

向原は当時、理容と美容を混在させたユニセックスの店という業態を開拓。

さらには世界大会の日本代表となるほどのスターだった。

その向原の講演を聴きに行った母親が、これからはこういうお店が発展するから、と彼に半ば強引に勧めたのである。

 

「でもぼくは興味ない。上京する前日まで、その先生がどんな人で、そこがどんな会社か全く知らなかった(笑)。当時はほとんど12時間労働でね。休みも少ないし、給料も少なくて。さらに先輩の洗濯物なんかも新人がすべてやっていた。だからいつでも辞めてやる、と思って荷解きをしなかった(笑)」

 

だが、半年ほどしたある日のこと。

彼は夜中、先輩たちがコンテストに出場するため懸命に練習する場に立ち会う。

技術も何もない彼は、時計係をやらされていた。

 

「仕事を終えた後の夜中に、みんな汗かきながら一所懸命に練習してるんです。それを見た時にね、これはもしかするとおもしろい世界なのかも知れない、と思ったんです」

 

当時、彼の心の中には、つねに師匠・向原一義の姿があった。

世界大会の日本代表はもとより、TBSで放映されていた番組『変身コーナー』の、レギュラー技術者としても活躍する師匠の姿。それは彼の憧れでもあった。

 

「あんな仕事ができるようになればいいな、という気持ちと、なれるはずがないという気持ちでフラフラしてた。そんな時、先輩たちの姿を見たんですね。それで、ものづくりってのはおもしろそうだな、と」

 

それから彼も本格的に勉強を開始した。

 

「そのうちお店で、あるお客さまから初めてシャンプーの指名を受けたんです。これが嬉しかった。お客さまに喜んでもらえる仕事って、いいものなんだなと思うようになった」

 

彼はようやく引越荷物をすべて解いた。

東京で、技術者として生きていく決心を固めたのである。

 

「きっかけってひとつじゃないと思うんですよ。いろんなことがボディブローのように効いてくる(笑)」

 

それから約2年後。

新しく六本木にオープンする美容室のスタッフとして、師匠に指名されるまでに成長する。

 

「それも運が良くてね。ほんとはぼくの前にふたりほど指名されてたんです。ただ、その先輩たちが辞退しましてね。で、ぼくのところまで回ってきた。ぼくはその頃、何でもやってやるという気持ちでしたから、すぐに引き受けて六本木に乗り込んだ」

 

彼は若い頃から「やり始めるとのめり込むタイプ」である。

美容の勉強を一から始めた彼は、六本木に移ってわずか2年、23歳で店長へと駆け上った。

 

「六本木に移った頃は緊張しましたよ。お客さまもテレビ関係の方がほとんどでね。みんなオシャレなんですよね。だからもっと勉強しなくちゃ、と思った」

 

彼はそこでファッションの勉強を始めている。

 

「オシャレな人がたくさん来れば、自分がいかにオシャレじゃないかがよくわかる(笑)。ぼくはファッションのことをお客さまから知らず知らずのうちに教わっていた」

 

彼は30歳になるまで、六本木店で腕を磨いた。

その店は師匠も先輩も優しく、居心地が良かった。

だからそのまま会社に残ることも考えた。

しかし、やはり“自分の働く場は自分でこだわって”探したかった。

そして自由が丘に、自分を表現できる場を発見するのである。

 

>スタッフの“セイカンタイ”を見つける経営者

 

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