核心をとらえるユニークな視点で、 美容業界に新風を吹かせる ーTHE GENERATION ALIVE西川礼一さんー
美容業界で活躍するあの美容師は、どんな人生を辿ってきたのか? どんな選択を経て今があるのか? リクエストQJ創刊以来、300回以上続くロングインタビュー「THE GENERATION」「THE GENERATION next」では、毎号、時の人にじっくりとお話を伺ってきました。
ここでは、グラデーションカラーとインスタグラムを武器に、一気に人気を獲得したサロン、「ALIVE」のオーナー、西川礼一さんをご紹介した 第324回(リクエストQJ 2018年3月号掲載)をご紹介します。
核心をとらえるユニークな視点で、
美容業界に新風を吹かせる
“グラデーションカラー”で旋風を巻き起こし、
表参道と原宿に2店舗を構える『ALIVE』は
入社2年目の新卒が
月間売り上げ230万円を叩き出す驚異のサロンだ。
そのスピーディな成長を促す新人教育と、圧倒的な集客力で
徐々に頭角を現し始めた若手経営者・西川礼一。
彼が見つめている「美容業界」、そして「未来」とは。
“いろんな成功のやり方があるし、
その人にしか出せない味が大事だと思う”
カリスマブームがきっかけ
「全部が挫折なんですよ、僕にとっては」
これまでの十五年間の美容師人生を、西川は爽やかに笑い飛ばしながら、こう振り返る。
彼の経歴や現在の注目度からすれば、「挫折」という言葉はまるで似合わないが、これは本音である。彼は幾度となく、美容師として敗北感と劣等感を感じ続けてきた。
西川が美容師になることを決めたのは、高校時代。当時はカリスマ美容師ブーム真っ盛りで、メディアにも都内の人気美容師がよく登場していた。高視聴のテレビドラマ『ビューティフルライフ』で、木村拓哉が表参道の美容師役を演じて人気を博していた頃だ。
「地元の高知にいながら、テレビで見て、単純に憧れましたね。かっこいい職業だと思えて。手に職だし、食いっぱぐれることもないと思ったし、いいかなって。就職はとにかく東京でしたかった。でも田舎者だったんで、高校では東京のコーラが千円するという噂もあったりして(笑)。家賃高そうだし、とりあえず専門学校は大阪にしました」
美容師になることを決めた西川は、青山・原宿エリアのスタープレイヤーがいるサロンで、一流の美容師になるという目標を立てた。そう決めたからにはしっかり学びたいと思い、専門学校では毎朝一番に教室に入った。夜は居酒屋でアルバイトをして、寝るのは毎日深夜二時。朝はもともと弱いタイプで起きるのは辛かったが、小学校一年から取り組んだサッカーのおかげで体力だけは自信があった。
そんな忙しい毎日を過ごした専門学校生活で、西川は人生の転機となる人物と出会う。学校主催のヘアショーに来ていた、青山の有名サロンで働く美容師だ。彼らに相談に乗ってもらったことがきっかけで、その後もたまに上京して髪を切ってもらうこともあったという。その交流の中で青山界隈のサロンの情報を集め、最終的には彼らが働くサロンを受けて、高い倍率を乗り越え入社が決まった。
青山・原宿エリアの美容師になったらすぐに有名になれる。そう思っていた。しかし、現実はここが富士山の一合目。登頂するためには計り知れない努力と体力、そして人間力がいる。だってここは、日本有数のサロン激戦区・青山の、しかもトップサロンなのだ。
自分しか見えなかった
「最初の一〜二年は、先輩から怒られ続けていましたね。自分はまだ何もできないのに我だけは強かった。だから自分の考えをそのまま入社当初から口に出していたんです。アシスタント三○人でミーティングしているときに、目標を発表している子に対して『全然本気を感じない』とあからさまに言ってしまったり、先輩にもダメ出しをしたり。実際にサロンに入社する前と、入社後は見える景色が違うじゃないですか。そこに対する不満をこぼしていたんでしょうね。当時は、社会のシステムがよく分かっていなかった。自分がどう見られているかとか、全く気にしていなかったんです」
こうと決めたらまっしぐらな性格で、西川はたびたび周りが見えなくなった。感情のコントロールがうまくできず、お客さまを怒らせてしまったこともある。その結果、新人時代はトレーナーが突然変わったり、いつもより多めの人数がついてマークされていたこともあった。それでもその頃は特に気にもせず、軽く受け止めていたという西川。情熱は人一倍あったが、技術チェックも思うようには進まなかった。
そんな頃、西川は大失恋をする。大好きだった彼女に、突然振られたのだ。仕事で認めてもらえない悔しさが続いていたからこそ、恋愛が支えにもなっていた西川にとって、これはキツかった。季節はクリスマスシーズン。一睡もできずに出勤し、絶対に仕事で見返してやると心に誓って、その日から仕事一本に打ち込むようになる。二十一歳のときだ。
早くデビューしたい。ひたすらそれだけを考えた。
そして時は流れ、西川二十四歳。待望のスタイリストデビューを迎える。入社して三年半。同期で二番目のスピードデビューとなった。
スタイリストになってからも、彼は全力で突き進んだ。集客数を増やすために、定休日になると街に出て朝から終電まで女性に声をかけ続けた。月間売り上げ二百万に届いたのは、デビューしてから一年後。街での声かけはその後も何年か続けたが、どんなに努力しても二百万以上を決して超えることはなかった。その頃、仲間から付けられたあだ名は「ミスターストイック」。それほどまでに、彼は自分を追い込んでいた。
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