びよう道 vol. 19 stair:case 中村太輔さん 〜カラーリストという職業を確立させるために走り続けてきた。ヘアカラーの文化が日本に根付くまでは止まれない〜
右も左も分からないのに「2カ月でデビューしろ!」と言われる
僕はカラーリストとして入社したんですが、その当時はまだカラーリストの人数が少なくてサロンに先輩が2名しかいなかったんですよ。ただ、サロンとしてはカラーのお客さまが溢れているから、「2カ月でデビューしろ!」って言われていました。普通に考えて、そんなのできるわけないじゃないですか。だけどやるしかないので、とりあえず習ったことをひたすら反復練習していました。結局、入社半年で正式にデビュー。まだ19歳でした。
ちょうどカリスマ美容師ブームだったので、お客さまの人数が本当にすごくて。下手くそながらに一生懸命やっているんですが、クレームの嵐みたいな時期もありました。お客さまに泣かれてしまったこともありましたね。
泣き言を聞いてもらえないので、一人で反省会して、また勉強して、その繰り返し。逃げ出したくなる時もありましたが、逃げられない状況だったんです。尻を叩かれ続けているような状態でしたけれど、その分、成長せざるを得なかったので、ある意味とても良い環境だったのかもしれないですね。
1年目の終わりくらいからは撮影にも携わっていました。2年目にはセミナー講師をしたりしていたんですよ。セミナー参加者は全員年上でした。そのくらいカラーリストは当時珍しい存在だったんです。
短期間でめちゃくちゃ叩き上げてもらえたのはありがたかったですが、一方でデビューが早かった分、やっかみを受けたこともあります。また、年齢は下でも技術者だから、アシスタントの先輩に仕事を頼まなきゃいけないわけです。お客さまもたくさんいるから、先輩より明らかに僕のほうが忙しい。自分が使われた経験がないし、忙しくて余裕がなかったこともあり、先輩への態度も悪かったと思います。だからめちゃくちゃ嫌われていましたね(笑)。
ジアミンアレルギーのため医師からデビューを止められていた
実はジアミンアレルギーも酷くて、皮膚科の医師からデビューを止められていたんですよ。アレルギーって基本的に治らないじゃないですか。症例として写真を撮られるほど酷いレベルで、あらゆるところから血が出ている状態。毎日、手袋をして、見えないところは包帯を巻いて、なんとかやってきました。自分が下手くそだからカラー剤がついてしまうんだと思って、より一層練習していましたね。ちなみに、上手くなってカラー剤が手につかなくなったんですが、今もアレルギーは治っていません。
3年目、4年目くらいには先輩のカラーリストが結婚・出産で退社し、事実上のトップになってしまいました。入社してからずっと「これ、俺できないし」と思えるようなハードルばっかり用意されていたので、トップになってもプレッシャーはなかったです。周りにできる人もいないから、できるように自分をもっていくしかない。でもやはり、サロンの看板に傷をつけちゃいけないっていう思いはありました。
撮影でもセミナーでも期日が決まっているから、期日までになんとかしなくちゃいけない。その繰り返しによって自分が引き上げられている感じがありましたね。トップのカラーリストだから、お客さまからの期待も大きかったと思います。いつも、会社や社外からも「新しいものを創り出せ」っていうプレッシャーをかけられていました。ノーが言えない、逃げられない環境だからこそ、伸びてこられたのかもしれないですね。
>凡人である自分を否定しまくって新しいアイディアを捻り出してきた