びよう道 vol.10 SORA 北原 義紀さん 〜いくらネットで検索しても、自分のアイデンティティは確立できない〜
理容室で稼いで貯金し、ロンドン留学を経て美容の道へ
理容師の仕事はある程度の型(かた)が決まっていて、そのカタチをつくります。そうではなく、美容師のように、その人が持つ雰囲気をカタチに落とし込む腕を上げたいと思いました。最初は理容師の技術にも理解があるサロンを探して、そこを受けましたが、募集のタイミングとあわなかったので、一旦、理容師に戻ることに。
大阪の理容室に入ったのですが、角刈りのチャンピオンの経験があるということで、いきなり月給40万円をもらっていました。角刈りを切れるというのは、それほど価値があることだったんです。ちょうどそのころ知人に「せっかくだから海外を見てきては?」と言われたので働きながらお金を貯めてロンドンに行ったんです。恥ずかしい話、ニューヨークとロンドンの区別がついていないような状態だったんですよ(笑)。でも、美容を学ぶにはロンドンがいいだろうということで決めました。
ただ、行った先でコミュニケーションもとれないし、仕事もできないしすぐに帰りたくなりました。親も友達もいない環境で、他人との交流もないし、仕事もないし、人間として必要とされていない感じがして辛かった。最終的に仲間ができて楽しく過ごしたんですが、お客さまや仲間から必要とされることのありがたさを感じました。そして、帰国後に希望していたサロンに就職。約2年でそのサロン全員の売上を抜いたんです。しかし、「本当にこれでいいんだろうか」という気持ちがいつもありました。
感性の部分で自分の弱さを感じていて、コンテストに出ても全然勝てない。サロン内での立場はディレクターだけれど、実力が伴っていないような気がして辛かったですね。今振り返ってみると、そのサロンに5年ほど勤めて辞めて独立したのも、何かを変えたい気持ちがあったからだと思います。
「答え」を他人に聞いてばかりでは本質的な力はつかない
独立したところで、心のもやもやが晴れることはありませんでした。言葉にするのは難しいのですが、「俺、なんかすごいことに気づけたかもしれない」と感じたのは、独立して7年後くらいのころ。ちょうど10年くらい前です。とにかくたくさん撮影をして、自分の作品がどう評価されるのか、真剣に向き合った時期がありました。やがて年間に30本くらい撮影が入り、雑誌に出たり、ヘアコンテストの仕事だったりが増えたんです。
そのとき初めて、理容師の修業時代からそれまでの経験がすべてつながるような感覚がありました。「ああ、このために俺はやってきたんだ」みたいな。技術や考え方を変えたのではなく、満を持して美容師・北原義紀という自分のアイデンティティが確立されたんだと思います。
最近は「やり方」や「考え方」をすぐに求める人が多い。でも本質的な力というのは、自分で考えなければ身につけることができないんです。人ってね、簡単に手に入れたものはすぐに手放しちゃうんですよ。答えを導き出すまでのプロセスと向き合って、自分で答えを出すことが「生き抜く力」。努力してつかんだものだから、本当の意味で自分のモノになるのだと思います。
ヘアメイクの世界に入ったのは40歳を過ぎてからだったので、キツい部分もありました。周りには若くて、才能に溢れている人がたくさんいる。美容師主導で提案できるサロンワークとは頭の使い方が違うんですよね。サロンワークでは、僕に切ってほしいお客さまがきてくださる。一方で、ヘアメイクは僕じゃなくていい場合もほとんど。気にいられないと次の現場には入れないんですよ。だから場を盛り上げることも僕の仕事でした。