LECO 内田 聡一郎さんのびよう道 〜「俺、マジ最高!」有頂天が人を育てる。自己肯定感を満たして高く飛べ〜
美容室でも待遇や休日が大切と言われる時代。もちろんそれもいいですが、美容人生のどこかで“心も体も美容でいっぱい”という時期があってもよいかもしれません。
「びよう道(みち)」は、そんな地道で壮大な鍛錬の道を歩んできた“美容の哲人”に、修業時代に一人前になったと思った瞬間や美容の哲学など、それぞれの美容の道を語っていただく連載企画です。
今回は、LECOの内田 聡一郎(うちだ そういちろう)さんです。サロンオーナーであり、2020年JHA(Japan Hairdressing Awards)の覇者、さらにDJとしてイベントプロデュースも行うこともあれば、サブカルチャーにも造詣がある多芸多才の人です。今回はそんな内田さんのこれまでの歩みをうかがいました。高みを目指す美容師さん必見のインタビューです。
ファッション誌を読み漁るミーハーな高校生
小中高と野球部でずっと坊主頭でした。その反動なのか、高校の途中で野球をやめると、狂ったようにおしゃれに目覚めたんですよね。
MEN’S NON-NO、FINEBOYS、smart、Boon…ファッション雑誌は全部買って読み漁っていました。いしだ壱成さんや武田真治さんが人気で、おしゃれのカリスマとして藤原ヒロシさんなどが影響力を持っていた時代ですね。
そこに重なるようにして、カリスマ美容師ブームがやってきました。僕は横浜市出身なので、市内の中心地にあるイケてる門構えの美容室に通っていました。当時は、KinKi Kidsの堂本剛くんがもみあげを伸ばしていたから、真似して伸ばしてジェルをつけたりしていましたね。髪型が決まらないときは、学校に遅刻するのが当たり前。そんな高校生でした。
元々僕はスーツを着て働くイメージが全くわかず、調理師か美容師か、アパレル関連の仕事に就こうと思っていました。高校2年の冬くらいに美容師になると決めて、3年から美容室でアルバイト。働きながら通信課程で国家資格をとりました。
でも21歳くらいで美容師をやめてフリーターになりました。同級生が大学生活を謳歌しているのに、僕は朝9時から夜9時まで働いている。遊びたい盛りだった僕は、シンプルに美容師が辛かったんですよね。バイトを転々としたんですが、調理のアルバイトをしてみたら、それはそれでしんどくて、「結局、仕事ってどれも大変なんだなと」と思ったんです。
モデルハントの時間を使い、原宿ストリートで売名行為
そんなふわふわした暮らしをした挙句、親に「もう一度美容師に戻ろうと思う」と言ったからブチ切れられて、実家を追い出されたんですよね。これはもう東京で勝負するしかないなと。
行きたいサロンがあったので受けたんですが、全て落ちて迷っているときに、前職のVeLO & veticaがオープニングスタッフを募集していたんです。面接を受けて入ったのが2003年。業界でバリバリのクリエイティブなスタイリストが揃っているサロンでした。
一方で僕は、横浜の地域密着型のサロンで、赤文字系のコンサバスタイルしか作ってこなかったし、ほかに興味もなかった。だからカルチャーショックの連続ですよね。ファッションも、「コレクションやハイファッション、その背景にあるカルチャーも知っておこう」っていうサロンだったから。東京で働くからには、最高峰を目指さなきゃいけないんだなと。僕は本質的にはめっちゃミーハーな人間です。けれど、VeLO & veticaが追求するような崇高なものにもリスペクトがあった。両方知ることができたのは幸運だったと思います。
撮影も多いサロンだったから、アシスタント時代はモデハンにも時間を費やしていました。承認欲求モンスターだった僕は、その時間を使って売名していたんですよ。ストリートスナップに出してもらって、オシャレな人たちの仲間入りをしたかった。美容師がスナップ常連だったこともあり、取り上げてもらえるようになったんです。
同世代にSHIMAの奈良裕也くんみたいなスターもいて、芸能人とはまた違う「街のファッションリーダー」みたいな感じで、ストリートキングと呼ばれる人たちが若者を熱狂させていた。そこに、たまたま僕も入らせてもらい、撮られる側になれたことは大きかったと思いますね。