DADA CuBiC古城隆さんのびよう道 〜今は亡き恩師の無茶振りに応え、高いハードルを超え続けた修行時代。「チャンスをもらえる人」になれば道は拓ける。〜
無茶振りを乗り越えることで成長できた
2年目の夏休みのことも忘られません。休み前に「夏休み何するの?」と植村に尋ねられたんです。休み明けにスタイリストの試験を控えており地元に帰れる状況でもなかったので、「特に決まっていません」と答えました。すると、「1日7人、モデルをやれ」。僕はどんな課題を出されても絶対にできないと言ったり怯んだ様子を見せたくなかったので、平静を装い「わかりました」と言いました。大変になることはわかっていたけれど、まずは受け入れる。もちろん、そのあとは必死です。
当時は現在の場所に拡張移転をする前で、原宿にも店舗があったので毎日そこに行って、モデルハントして切って、またモデルハントして切る…ということを繰り返しました。モデルさんにも協力してもらって、なんとかノルマをこなして、30人近く切ったと思います。
ただ、その間は他のみんなは休みだから、店内には僕一人。モデルハントに出るために鍵を閉めているときは、寂しかったですよ。それでも、夏休み明けにモデルの写真を出してやるという意地があったので4日間、やり遂げました。終わった時は「どうだ!」という気持ちでしたね。
結果として僕は2年目にスタイリストデビューをしています。代表の植村から直接見てもらっていたことと、無茶振りにも思える課題に意地でも応えてきたからだと思っています。デビュー後もそれは同じです。営業に加えて、突然「業界誌向けにウィッグを切ってほしい」と頼まれて、大量のウィッグのカットで眠れない状況になったりすることが、しょっちゅうありました。でもそれは、自分を信じて任せてくれているからだし、絶対に怯んだ様子を見せないというプライドもありましたから、一つひとつ応えていくことで成長できたのだと思います。
今は亡き師匠の植村との関係性が変化した瞬間
デビューしてすぐ、確か23歳くらいのときに美容業界の一大イベント、アジアビューティーエキスポのステージでカットしました。24歳くらいのときには業界誌からお仕事をいただき、カットの連載を1年くらい任せてもらいました。最初から自信満々でやってきたわけではなくて、やると決めたら、あれこれ考えても仕方がないので、準備するしかないわけですよ。
初めてカットの講習の講師を担当したものも24歳のこと。人前で話すことが苦手でしたけれど、やるしかない。夜中までDEMOや話す練習をしました。それでも、初めはは準備した紙に書いてあることしか、話せなかったですね。しかも、講習には僕よりも年上の方がいっぱいくるんですよ。そこで僕の実力を試されるようなこともありましたし、明らかに舐められたこともありました。そうすると、次の講習の日に開ける扉が重くなる。そういうときに、鼓舞してくれたのが植村だったんですよ。
植村から厳しいことを言われ続けたし、苦しい思いをたくさんしましたが、しつこく粘りました。入社から十数年経ったあるとき、植村がある仕事で僕を認めてくれたんですよね。関係性が進化したと感じられる瞬間がありました。そこからお互いの接し方が変わり、関係性が変わったように思えます。今振り返ると、そのときに僕は美容師として、人として認めてくれたのではないかと思います。