びよう道 vol.31 Un ami森内 雅樹さん 成長しようと思ったら、いつまで経っても満足しない。僕が満足するのは、死ぬときかな。
StudioVのトップスタイリストになり、新しい目標を探しているときにスカウトされた
StudioVのヘアメイクチームはかなり結果を出していたので、仕事も多かったんです。だけど、アシスタントの中でもかなり上の評価をもらっていないと、ヘアメイクの現場には連れていってもらえない。だから、どんな仕事でも必死にやりました。
そのうち、雑誌やファッションショーなどいろいろなヘアメイクの現場に連れていってもらえるようになったわけですけれど、本当に何年も休みがなかったですね。だけど、休みがないからといって辞めたいとは思わなかった。仕事は大変だけど、いつも上を目指していましたから。どうしたら同期で一番になれるのか、どうしたら先輩を追い抜けるのか考えていましたね。この姿勢は今も変わらないです。いつまで経っても満足できないんですよ、僕は。「満足するときは死ぬときかなと思っています」と思っています。
StudioV では3年半くらいでスタイリストになり、その後、あっという間にトップスタイリストになっていました。自分の中でそれ以上の目標を見つけられなくなってしまい、何か新しいことをしたいなと思っていたんです。
その当時は、モデルさんのほとんどが外国人だったから、英語を話せるヘアメイクでないと仕事を受けるのが難しい時代でした。ニューヨークかどこかに1、2年行って英語を覚えながら仕事をしようと考えていたら、のちのカリスマ美容師ブームを起こすサロンから声がかかった。自分たちでつくっていけるサロンだし、アメリカに行くよりおもしろそうだなと思ったんですよ。
雑誌のモデルが外国人から日本人にシフトしたのは僕らの時代から
昔は雑誌の影響力がすごく大きかったから、自分も誌面に載る仕事をしたかった。だから自分の作品集をつくって、集英社や小学館、主婦と生活社とか色々な編集部に訪問して営業していました。そのころは編集部から直接、サロンに声がかかっていましたけれど、ほとんど先輩たちが担当していたので、ただじっと待っているだけじゃ自分にチャンスが回ってこなかったんですよね。
一度誌面に出るとすごくたくさんのお客さんがきました。例えば『ar』(主婦と生活社)に出した作品がよかったらそれだけで毎月何百万とか、本当にすごかったですよ。
日本人のモデルさんを使い、リアルなヘアスタイルの提案を始めたのも僕たちです。それまでは外国人のモデルさんが当たり前だったから、周りからは結構叩かれましたよ。「一般に媚び売ったような撮影ばっかりやってるね」って。チクショー! と思いましたね、いまだに覚えていますもん。でも、その後の展開は、ご存知の通り。日本人のモデルさんを使うのがスタンダードになりましたよね。
雑誌編集部などのメディアの方たちと仲がよかったので、いろんな仕掛けをしました。当時は雑誌に掲載されたものが全国で流行る現象がありましたから。例えば、雑誌でデジタルパーマが取り上げられたら全国に波及するんです。だから、雑誌のタイアップの枠を買って、原宿・表参道の有名美容師を集めて、デジタルパーマの作品をつくる。
そうすると、それを見た全国のヘアサロンがデジタルパーマを導入するわけです。お客さんがそれをやりたいってサロンにくるわけだから。こんな感じでメーカーさんとのタイアップもたくさんやってきました。お金をもらっているわけでもないのに、プロデューサーみたいなことをよくしていましたね。というか、今もそうかもしれないですけど。