「“美容室”ではなく“美容師”という職業でみていた」gricoエザキヨシタカさん、20歳の原点
現在、バリバリに活躍している美容師さんたちも、昔はみんな20歳でした。
もちろん、24歳で自分のサロンを立ち上げ、それ以来、
美容師の表街道をひた走っているgricoのエザキヨシタカさんも。
失敗して、踏ん張って、挫折して、でも起き上がって。
美容師、エザキヨシタカさんの原点となる20歳の頃のお話をお伺いしました。
美容師の道を選んだのは、おかんを早く楽にさせたくて
-エザキさんが美容師になったきっかけは?
「うちはずっと母子家庭だったんですよ。年子の兄がいるんですが、中学生くらいまでは二人とも、勉強もせずにやんちゃな生活をしていたんです。ところが、高校受験のときに兄が突然、猛烈に勉強しはじめて。県内有数の進学校に受かっちゃったんです。僕はものすごく負けず嫌いなので、『僕だけおかんに迷惑かけるわけにいかない』と、そこから勉強をはじめて、同じ高校に入学しました。
その高校は、ほとんどの生徒が国公立の大学にいくような進学校で、そんななかでも勉強はしていたのですが、そのうち進学のための勉強に意味を見出せなくなってしまって。早く母親を楽させたかったし、早く働きたいと思って、いろいろな職業を調べ始めたんです。なぜ美容師を選んだかというと、一番、面白そうだなと思ったから。長崎の専門学校に学校見学に行ったときに、ワインドの経験をさせてもらい、それが楽しくて」
-なぜ、そのときに見学した地元の専門学校ではなく、福岡の大村美容専門学校へ進学したのですか?
「どうせ美容師になるなら、日本一の美容師を目指そうと思ったんです。その当時、大村、日美、国際文化(※)の3校が有名だったんです。大村は福岡にあるのですが、ヴィダルサスーンでも賞をたくさん取っていて。一度、大村に見学に行ったときに、先輩の学生が僕にワインドを教えてくれたんです。その先輩が『僕はこの間のワインドの大会で2位しか取れなくて、隣にいる女の子が1位だった。でも、彼女を蹴落としても上に行きたい。僕には行きたいサロンがある。そのお店のためにこれからも頑張るし、ヴィダルサスーンの大会でも賞を取る』と言い切っていてカッコいいなと。日本一の学校に行ければ、日本一の美容師に近づくと思って、大村に入学することに決めました。
※大村美容専門学校、日本美容専門学校、国際文化理容美容専門学校
大村に進学しようと決めた後は、母親にこれ以上、金銭的な負担をかけたくなかったので、バイトを始めました。高校はバイト禁止だったのですが、先生に土下座して、僕だけ先生公認で。美容学校に進学するなんて、学校創設以来、僕で初めてだったと思うので、最初はものすごく反対されましたが、最後には僕の意志を尊重してくれ、バイトまで許してくれた。先生方には感謝しかありません」
学校では、リーダー役になることが多かった
-大村美容専門学校に入学してからは、どういう学校生活を送っていましたか?
「クラスでは、リーダーにされることが多かったですね。お前のおかげでこのクラスがまとまったと、先生に言ってもらったこともありました。よくしゃべるということもあるし、『この人はこういう人』という区切りというか固定観念を持たない性格なので誰とでも仲良くなれるから、リーダーになったのかなと思います。『学校に行っても意味がない』と、学校をさぼって遊んでばかりいた友人を説得して、学校に来させたこともあります。たぶん人が好きなんでしょうね。
授業は真面目でしたよ。カットとメイクに関しては、誰にも負けない自信がありました。というより、カットとメイク以外に優れているところはなかったですね。2年生のときには、ウィッグとワインドのコンクールは落選しましたが、ヴィダルサスーンのコンクールでは賞を取ることができました」
-最初の就職先は、東京の大手サロンでしたよね?
「そうですね。でも、最初は福岡で就職しようと思っていたんですよ。そうしたら学校の先生が『エザキは東京に行かなきゃダメだ。行かないなら、長崎に帰れ』と言ってくださって。僕の才能を先生が認めてくれたということももちろんあると思うのですが、それよりも『帰りたいと思ったらいつでも帰れる。でも、東京に行くのができるのは最初だけだから』と。その言葉がなかったら、福岡のサロンに就職していたと思います。
僕は“美容室”ではなく“美容師”という職業で見ていたので、最初に就職したサロンのこともよく知らなかったんです。でもその頃、一番勢いのあるサロンだったので、ここなら一生、美容師として働けるかなと思って面接を受けたら合格しました。合格したあとも迷っていたのですが、ある日、そこのサロンのオーナーさんに吉祥寺の駅でバッタリ会って、『エザキくんはうちに入らなきゃダメだよ』と言ってもらい、それで決心がつきました。
1年半でスタイリストになったのですが、サロン内でいろいろなことがあり、体調も壊してしまったので、サロンをやめてフリーの美容師になりました」
-フリーの美容師で、月収320万を稼いだとか?
「そうなんです。その頃はmixiが流行っていたので、mixiに自分のつくったスタイルを投稿していたんです。そうしたら、問い合わせが殺到して、いつの間にかそんなことになっていました(笑)。
gricoを立ち上げたときは、雑誌編集者の方が僕のことを覚えていてくださって、オープン後すぐに撮影のお仕事をいただきました。そんなことを経験して、結局、人と人のつながりが大切なんだなと思いましたね。
-先ほども人が好きとおっしゃっていましたが、エザキさんと話していると『人が好き』とか『人と人のつながりが大切』などという言葉がたくさん出てきますね。
「僕は子どもの頃から、みんなに助けられて生きてきました。母親はもちろん、父親の代わりに運動会や授業参観に来てくれた親戚の叔父や友人のお父さん、学校の先生方など、本当にたくさんの人の助けがあったからこそ僕がいる。今、家族には年に1回しか会わないけど、スタッフやお客さま、編集者、ライターの方々には年に何回も会っていますよね。そう考えたら、もう家族だと思うんです。だから、たとえスタッフになにがあったとしても働けるような環境をつくってあげたいし、お客さまを最高の笑顔にしたいし、幸せにしたい。僕が雑誌に出ることで、編集さんやライターさんが幸せになるように、つねに120%で関わっていきたいと思っているんです」
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