of HAIR 古里オサム 顧客とスタッフの“セイカンタイ”・・・? 【GENERATION】雑誌リクエストQJ1992年11月号より
雑誌「リクエストQJ」創刊以来の看板企画「GENERATION(ジェネレーション)」。
昭和〜平成〜令和と激動の美容業界において、その一時代を築いてきた美容師さんを深堀りしたロングインタビューです。
300回以上続いた連載の中から、時を経た今もなお、美容師さんにぜひ読んでいただきたいストーリーをピックアップしていきます。
今回は1992年11月号から、of HAIRの代表・古里オサムさんのインタビューをご紹介。30年近く経った今でも古びることのない、当時35歳の古里さんの美容哲学をぜひ感じてください。
自由が丘は確かに激戦区だった。
しかし、だからこそ彼は美容室を構えた。
No.1になるより
Only Oneになること。
それが彼の経営理念であったからだ。
今から5年前の1987年、
自由が丘にオープンした『of HAIR』は
エコロジーを基調とした先進の美容室である。
経営者の古里オサムは現在、35歳。
その経営戦略は、見事に時代をリードしてきた。
その成功の原点となったのは、
彼自身の次のような発想であった。
「どんなことにもおもしろさと価値がある。
勝負は、それをいかに人よりも早く発見し、素直に受け入れるか、である」
古里オサム 35歳
株式会社オブ 代表取締役
もともと理容師として出発した彼は、上京して3年目に美容師としても認められ、六本木の美容室を任されるようになった。現在、彼は株式会社の経営者兼美容師・理容師としてだけでなく、スタッフ教育担当、ファッション・トレンドウォッチャー、シャンプーの開発技術者、雑誌のヘアスタイリスト、講演会の講師などさまざまな現場でそれぞれに花を咲かせつづけている。その活躍の原動力となっているのは「人に喜んでもらうのが楽しいから」。ただそれだけ、である。
青空と緑にこだわる自然派サロン
東京。自由が丘駅周辺。
そこは小・中規模なビルと、種々雑多な商店群がひしめく商業地域である。
渋谷から急行に乗って約10分。
東横線と大井町線が交差する恵まれた立地と、
周囲に大学などの文教施設が多く集まるこの街は、
早くから若者の街として発展してきた。
その駅の南口から1、2分の、真新しいビルの2階に『of HAIR』はある。
階段を上って廊下を歩く。
すると左手に、全面ガラス張りのひときわ明るい美容室が見えてくる。
午後9時。
取材のため、営業終了後に訪れたつもりであったが、サロン内ではまだ数人の女性たちが鏡を前にし、若いスタッフたちが忙しく立ち働いていた。
「みんなモデルなんです。半月後に全スタッフがコンテストに出るんですね。そのためのヘア・デザインと衣装合わせ・・・」
経営者の古里オサムもまた、スタッフの間をスイスイと行き来しながら話してくれる。
彼がようやくインタヴューの席に落ち着いたのは、それから約30分後。
午後9時半頃であった。
「朝、来ていただければ良かったなぁ。ここ、朝陽がさんさんと降り注いでね、すごく明るいんですよ。それにね、今は夜だから見えないけど、店の前が桜並木でね。奇麗ですよ」
店内にはバロック音楽が流れている。
女性スタッフが、オシャレなトレイにグレープフルーツジュースを乗せて運んでくれる。
グラスの脇にはクッキーを重ねた小皿。
まるで高級喫茶店のようだ。
「トマトジュースを出せば良かったかな。おいしいんですよ。ウチのトマトジュース(笑)。有機農法でつくったトマトをただ絞っただけ、というジュースですけどね」
話を聞いただけで涎が出てきそうだ。
「青空の見えるお店ってのがぼくの希望だったんです。青空が見えて、緑が見えるところ。だからずいぶんいろんなところを回って、探しましたよ。たとえば海が見えるところを求めて藤沢、とか。緑を求めて厚木、朝霞、たまプラーザ、中央林間・・・。青山にも、神戸にも探しに行きました(笑)」
極端に言えば日本中、である。
「どこでも良かったんです、場所はね。とにかく青空と緑。そして太陽。街の雰囲気よりも、店の周囲の自然が問題だった。ぼくは田舎者ですから、鹿児島の海育ちですから、緑が見える方がいいし、ブルーもね、青空や海が見えた方がいい」
自由が丘という街は、決して豊かな自然を周囲に抱えているわけではない。
駅を出ると、むしろゴチャゴチャした街並みと人の多さが印象に残る。
しかし、彼の言う通り、駅から約1分という裏通りには空をさえぎる大きなビルもなく、小さな公園のような桜並木がつづいていた。
「お店を出すということは、そこで自分が一生働いていく決意をすることですよね。だったら自分で一番居心地のいい場所で仕事をすること。それがいい作品をつくることにつながる、と思ったんです」
彼が『of HAIR』をオープンしたのは5年前。1987年のことである。
当時、日本は戦後最大の景気拡大、いわゆる“バブル経済”の真只中。
不動産価格は急騰を始め、自由が丘の物件も決して安くはなかった。
「採算を考えたら出さなかったでしょうね。でも、採算よりも自分が気持ち良く働ける場を最優先に考えたんです。そして同時に、次の出店計画を立てていた」
自由が丘で独立して3年後、1990年に彼は田園都市線・宮崎台に2店目をオープンしている。
「その店も、もちろん環境を重視しました。緑が多くて、全面ガラス張りの30坪。でも家賃はそんなに高くなかったから、ここならさらに次を睨んだ攻撃的な経営ができるし、スタッフも育てられると思った」