PEEK-A-BOO川島文夫 〜飢餓感の、地図。〜【GENERATION】前編 雑誌リクエストQJ2003年1月号より
雑誌「リクエストQJ」創刊以来の看板企画「GENERATION(ジェネレーション)」。
昭和〜平成〜令和と激動の美容業界において、その一時代を築いてきた美容師さんを深堀りしたロングインタビューです。
300回以上続いた連載の中から、時を経た今もなお、美容師さんにぜひ読んでいただきたいストーリーをピックアップしていきます。
今回は2003年1月号から、PEEK-A-BOOの代表・川島文夫さんのインタビューをご紹介。美容業界の偉人の一人、川島さんのドラマチックな美容人生を当時の空気感を感じながら、ぜひ読んでみてください。
今回は前編です。
ライター:岡孝司
こころにも、乾きがある。
感じる人には、感じる。
どんなに満たされた生活をしていても、
どんなに名誉を与えられても、
こころの乾きを抑えられない人が、いる。
人生にも、地図がある。
こころのなかに持っている人が、いる。
最初から狭い地図を持っている人。
人より広い地図を、広げている人。
さまざまである。
だが、こころの乾きを知る人は、
その地図の全貌を、知らない。
地図の果て。
境界が視えないから、乾くのだ。
満たされないのだ。
川島文夫。
彼はこころのなかに『地図』を描きつづけてきた。
だれにも真似できない地図。
彼自身さえ、果ての見えない地図。
飢餓感の、地図。
久しぶりに2号連続で、ひとりの人間を描きたいと思った。
掟破りは承知の上で、
川島文夫という“巨人”の、飢餓感と地図を。
川島 文夫
Fumio Kawashima
『PEEK-A-BOO』
Photograph by Hiroshi Miyazaki
text by Takashi Oka
高山美容専門学校出身。1970年にロンドンの『ヴィダル・サスーン』入社。3年ほどでアーティスティック・ディレクターに昇り詰める。なかでも彼が発表した『ボックス・ボブ』は、サッスーン史のなかで今も輝きつづける。75年に帰国。77年、東京・表参道にオープンした『PEEK-A-BOO』とともに、現在も日本の美容界を牽引しつづける。1948年11月3日生まれ。
小春日和という言葉が、いかにもふさわしい一日だった。空はどこまでも高く、めずらしく真っ青だった。けやき並木の落葉は舗道を埋め尽くし、その上をカラフルなヘアスタイルを誇示するかのように若い女性たちがゆっくりと闊歩する。
東京・表参道。11月13日。私は『PEEK-A-BOO』への道を、辿り始めていた。
『川島文夫』という名前を初めて知ったのは、いつのことだっただろう。
やわらかな木漏れ日のなかで私は思った。
あまりにも有名な人。美容師。技術者であり、創造者。そして伝道師。日本人美容師として初めて、世界にその名を轟かせた国際人。なのにその実像を、肉声を、私は知らなかった。
インタビューを5日後に控えた水曜日。私は『PEEK-A-BOO』を訪れた。目的はインタビュー内容の打ち合わせ。
取材対象者との事前の打ち合わせ。そんな依頼を受けることも、これまでほとんどなかった。すべてはぶっつけ本番。初対面の人から、より新鮮な話を聞き出すこと。それが私のやり方だった。だから「もし打ち合わせの依頼があっても丁重にお断りしてほしい」。私は編集部を楯としてわがままを通してきた。だが、「今回ばかりは断れない」。それが編集部の結論だった。
表参道から分かれた小径。数段のステップを降りると、小さな中庭。煉瓦貼りの床をさまざまな植物が囲む、その庭に面したガラスの向こうに、川島文夫はいた。あまりにもあっけない遭遇。明るい店内で、陽灼けした顔がひときわ目立つ。彼はセット面で顧客の髪を切っていた。楽しそうに談笑しながら、ハサミを動かしていた。
彼のいかにも楽しげな姿を、私は中庭のベンチに腰掛けて眺めていた。
指定されていた約束の時間はとうに過ぎていた。私は一度、サロンの扉を開け、スタッフに私が来たことを伝えた。そして外で待つことを告げ、再び中庭に出たのだった。
私は、彼の姿を見ていた。見ているのが楽しかった。彼を待つ時間を楽しんでいた。バッグから読みかけの文庫本を出し、目を落とすふりをしながら、実は彼を盗み見ていた。彼はおそらく時間をかけて、納得のいくまで髪を切っているのだ。
美容師ブームが起きたころ、「15分で切れなければプロじゃない」という言葉が流通したことがある。その言葉に、なにか割り切れない、もっと言えばこころにザラリと触れてくる感触を持っていた私は、川島文夫の仕事を見ながら安心していたのだと思う。
もちろん15分で、顧客を満足させられるのもプロだろう。殺到する予約にできる限り応え、しかも次の顧客を待たせない。それもまたプロの仕事である。だが‥‥と、私は思っていた。美容師の仕事は、それだけではないだろう、と。
“ヘアをハサミでカットする”という手法を、日本の美容界に定着させ、主流にしたのは川島文夫である。と同時に日本には男性美容師が増え始め、美容界はあたらしい時代に突入した。私はそう認識していた。
日本の美容師は、まず『ヴィダル・サスーン』という男からその手法を学んだ。先達は萩原宗。尾中敏泰。今井英夫。テリー南。嶋ヨシノリ。ケネス・ヒスミ‥‥。聞きかじりの名前を、私は思い出していた。
その間、川島文夫はどこにいたのか。何をしていたのか‥‥。
残念ながら、知らなかった。
ヴィダル・サスーンの初来日は1970年。昭和45年。そのとき、川島はどこにいたのだろう‥‥。
わからなかった。
川島文夫は、1975年にロンドンから“帰国”した。それから2年後に『PEEK-A-BOO』オープン。ならばその2年間の空白は、何だろう。それもわからなかった。そもそもなぜ彼は美容師になったのか。なぜ、ロンドンに行ったのか。なぜ、サスーンに入社したのか。『PEEK-A-BOO』という不思議な名前の由来は何か‥‥。知りたいことは次々とあふれてきた。
冬の陽が落ちるのは早い。空を見上げると、青かった空はその輝きを失い始めている。本が読める明るさではなくなったため、私は店内のソファに移動した。するとそこへ川島文夫が現れた。
にこやかな笑顔。待たせたことを詫びる言葉。私は少しホッとしていた。
「昔のことよりもね、これからの話をしたいんだよね」
だが、彼はそう切り出した。それは宣言にも似た響きをもって、私に届いた。打ち砕かれそうになる意志を、私はかろうじて支えた。
私はささやかな反抗を試みる。
「いや、もちろんこれからのことも語っていただきたいんです。だけどこの雑誌は、若い美容師さんもたくさん読んでいます。その若い美容師たちに、川島さんの半生を伝えたいんです。なぜ美容師になったのか。なぜロンドンへ行ったのか。なぜサスーンだったのか。なぜアーティスティック・ディレクターに昇り詰めることができたのか。そのひとつひとつが、若い人たちの指針になったり、考えるきっかけになればいいな、と」
川島文夫はニコニコしながら聞いてくれた。だが、出てきた言葉は厳しかった。
「あんまり昔のこと話しても意味ないと思うんですよ。ぼくはどっちかというと、ロンドンの話もいらないくらいなんですよね。いつもインタビューのときには、あまり話さない。昔の話は、あと10年くらいとっておこうかなと思ってる。で、最後の最後に本にする」
困る。それは困る。読者は知りたがっている。川島文夫の半生を。転機を。考え方を。せっかくのチャンスを逃すわけにはいかない。いや一番知りたがっているのは、なによりこの私なのだ。
「いまやりたいことがあるんですよ。ビデオにするのか、DVDにするのか、わかんないけども、川島文夫のすべて、というのをやろうかなと思って。来年(2003年)にもやろうかなと。だからあんまり今言っちゃうと、新鮮味なくなるんじゃないかな、と」
私はますます焦った。
「いや、その、じゃあ、そのあらすじをこの雑誌で語っていただいて、詳しくはそのDVDで、ということで」
しどろもどろになりながら、私はなんとかその場をしのいだ。とにかくインタビューの当日が、勝負。翌週の月曜日の再会を約して、私はサロンを後にした。外はすっかり暗くなり、表参道の街灯に照らされた落葉は金色に光っていた。