CHARLES DESSIN 黒木 利光さんのびよう道 〜「撒かない種は咲かない」 技術と人間性を磨き続けた先に花咲く未来がある〜

 

美容室でも待遇や休日が大切と言われる時代。もちろんそれもいいですが、美容人生のどこかで“心も体も美容でいっぱい”という時期があってもよいかもしれません。

 

「びよう道(みち)」は、そんな地道で壮大な鍛錬の道を歩んできた“美容の哲人”に、修業時代に一人前になったと思った瞬間や美容の哲学など、それぞれの美容の道を語っていただく連載企画です。

 

今回は、数々のヘアコンテストで頂点に立ち、極上のケアブリーチをはじめとする技術力の高さで、多くの美容師からリスペクトされている黒木利光(くろきとしみつ)さん。「世界を美しく変える」という壮大な理念を掲げ、びようの道を邁進しています。今回はそんな黒木さんのこれまでの歩みをうかがいました。

 


 

関西の名門私大を中退し、美容の道へ

 

 

僕の父は美容商材のディーラーで、母は美容師をしていたので、美容の世界に興味を持つのは必然の流れだったと思います。高校時代にはダブルスクールで美容免許を取得し、美容室でアルバイトもしていました。

 

勉強も嫌いではなかったので関西大学の総合情報学部に進学。でも、将来を考えたとき、自分がスーツを着て働く人になるイメージが全くわかなくて。大学を中退し、美容師になると決めたんです。

 

美容師になってからは、手取り12万くらいの給料の全てを、セミナーや技術講習を受けるために使っていました。毎日カップラーメンと水だけですごしていたら、栄養失調で倒れてしまいまして。お医者さんに「君の血液には栄養が全く入ってないけど、何を食べているの?」と言われたことを今でも覚えています。

外部講習で学ぶだけでなく、独学にも力を入れていて、美容業界誌や美容技術書で学んだことを、ウィッグで試したり、モデルハントして切らせてもらったりしていました。世の中にある業界誌はほぼ全て読んでいたんじゃないですかね。バックナンバーも取り寄せていたから部屋中、書籍だらけでした。

 

「若いくせに」という言葉がいつもつきまとっていた

 

 

美容に関することをたくさん学び、お店で試したいこともいっぱいあったんですが、僕は下っ端だったこともあり、「髪が痛まない縮毛矯正のメニューをつくりたい」「新しい商品を入れたい」など、色々な提案をしても通らなかったんです。「売れないからダメ」「決められた手順通りに仕事をして」みたいな感じで。そんな状況を打破したくて、独立資金の目処がついた21歳の時、1店舗目を立ち上げました。とにかく自分の好きなようにやれる場所をつくりたかったんです。

 

でも、自分が作った美容室でも「若いくせに」という言葉が常につきまとっていました。スタッフのほうが年上だし、技術も上手かったので「なんとか追いつき、追い越していきたい」と思って練習していたことを思い出します。

 

あるとき、カリスマ美容師だった人が僕の美容室にやってきて、「お店を譲ってほしい。まだ若いから手放したほうがいいよ」と言ってきたんです。当時僕は22歳で、その人は今の僕と同じくらいの年齢だったと思います。妙に説得力があったので、その言葉を信じてお店を手放してしまいました。

 

 

仕方なく自分の実家の美容室から再出発することに。ありがたいことに、お客さんがいっぱいきてくれたんですよね。セット面2つにシャンプー台1つの小さな美容室ですから、毎日満員御礼。どうにも手が回らないので、仲の良いお客さんには自分でドライしてもらったり、週末に床はきなどを手伝ってもらったり。お客さまに助けてもらうことでなんとかなっていましたが「これではいけない」ということで、再び出店したのが「CHARLES DESSIN」です。当時は大阪の天王寺近くにありました。

 

>「今日はどうしますか?」から始まる仕事がつまらなかった

 

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