第4話【1945年 岐阜3】 今、この手に銃があったら……
1945年6月22日午前9時ごろ。
岐阜県の各務原(かかみがはら)飛行場上空にB29の編隊44機が飛来した。
各務原飛行場は1917年に完成した重要な飛行場だった。その理由は、川崎造船(のちに川崎航空機工業が発足し分離・独立)が日本初の国産航空機量産工場を併設したからである。
太平洋戦争が始まると、川崎航空機は自ら開発した陸軍三式戦闘機『飛燕』をはじめ、さまざまな飛行機をまさしく量産。各務原で製造された飛行機は、やがて陸軍の全飛行機の70%を占めるに至った。
B29の標的は、その川崎航空機工業の工場と、各務原飛行場そのものであった。
B29は1トン爆弾と呼ばれる大型爆弾を集中投下した。その結果、工場はほぼ壊滅。死者は169人を数えた。
そのわずか4日後。6月26日午前9時10分。二度目の空爆が始まった。今度は101機ものB29が飛来。1トンではなく、その約4分の1の500ポンド爆弾を集中投下。前回の空爆に耐えた工場群の残存施設を徹底的に破壊し尽くした。
その後、空襲には戦闘機が加わる。
1945年3月に小笠原諸島の硫黄島を奪取したアメリカ軍は、各務原周辺にも『P51ムスタング』や『グラマンF6Fヘルキャット』を送り込んだ。
そのなかの1機が、大野を襲った。
各務原の空爆を受けて、陸軍は航空機の部品を学校に隠すことにした。飛行機の翼や胴体になるジュラルミンの板を、国民学校の講堂に並べる。アメリカ軍は当初、学校を空襲対象とはしていなかったのである。
その日。岐阜上空には快晴の空が拡がっていた。大野は先生に頼まれ、講堂の施錠を確認しに行った。いつものようにカーキ色の国民服の上下に軍帽をかぶり、膝から下にはゲートルを巻いていた。
広い校庭を、大野は歩いていた。地面には自らの短い影がくっきりと浮かび上がっていた。
突然、後方から爆音がきこえてきた。その瞬間、大野は悟った。
敵機だ。
エンジン音が違う。ゼロ戦でも、キ61(飛燕)でもない。全然違う。聞いたことがない。つまり敵機。
大野は振り返る。
その目は瞬時に機影をとらえた。両側に伸びた主翼の先端が四角に切り取ってある。
グラマンだ。
日本軍の戦闘機はすべて、主翼の先端が丸くなっている。だがアメリカのグラマン戦闘機は航空母艦に乗せるために主翼を折りたたむことが求められた。だから先端は切り取ってある。そう教わっていたのだ。
グラマンは異様な爆音を轟かせながらまっすぐにこちらへ向かってくる。周囲に、身を隠すものはなかった。
大野は飛んだ。前方へ、身体を投げ出した。両手をまっすぐに前へ、両足もまっすぐ伸ばした状態で校庭の地面をすべった。
「運否天賦」。とっさに大野は教官に教わった言葉を思い出した。その瞬間だった。
ダダダダダッ。
機銃掃射が始まった。
横たわった大野の身体のすぐ右側、数十センチをグラマンから放たれた銃弾が駆けていく。吹き上がる砂。火薬の匂い。グラマンは爆音を響かせながら大野の真上を通過していく。
そのとき、大野は顔を上げた。するとグラマンのパイロットが上空で、首を回してこちらを見ていた。
眼が合った。そう思った。戦闘機乗り用のメガネの中にパイロットの眼が見えた。それは大野が生まれて初めて見た、外国人の眼だった。
今、この手に銃があったら、絶対にあの眼を撃ち抜いてやったのに。
グラマンはそのまま、前方に200メートルほど進むと機首を上げた。
まずい。旋回してくる。
大野は立ち上がり、駆けだした。校庭の真ん中に立つ銀杏の木をめがけて駆けた。
グラマンは予想通り、旋回して再び向かってくる。
大野は銀杏の木にたどり着き、その太い、両手を拡げて三抱えほどもある幹に飛びついた。見上げるとあおい葉がびっしりと生い茂り、その隙間からちらちらと太陽が見えた。
爆音は一気に近づいてくる。
だが、大野は銀杏の木に守られていた。
大野を見失ったグラマンは、そのまま彼方へと飛び去っていった。
つづく