あたらしいサロンは、月曜日にオープンした。その朝、ヴィダルがサロンに到着すると、ひとりの小柄な女性がドアの前に立っていた。
ニュー・ボンドストリート171番地には、以前『ホセ・ポウ』というサロンがあった。ヴィダルはその権利を買い取り、全面改修して自分のサロンをつくった。権利を買い取る際、ヴィダルは『ホセ・ポウ』で働いていたスタッフに伝えていた。
「もし、ヴィダル・サスーンのカット・メソッドとルールを学ぶ気持ちがあるなら、応募してほしい」
小柄な女性は、たったひとりの応募者だった。ブロンドヘアに眼鏡をかけた女性は「アニー・ハンフリー」と名乗った。
アニーはカラーリストだった。そこでヴィダルは、チーフ・カラーリストのピーター・ローランスに預けてみた。
「ヴィダル、ちょっといいかな」
オープンして数日後のことだった。ピーターが声をかけてきた。
「アニーのことなんだけど」
ヴィダルは身構えた。
「ダメか? 使えないのか?」
ピーターは笑顔で答えた。
「いや、その逆さ。すごいんだ。とにかく最高に腕がいい。それによく勉強している。すぐにアニーがぼくらの技術を一新するよ」
ヴィダルのサロンはまたひとり、強力な“武器”を手に入れた。
しかし一方で、オープンと同時に離れていくスタッフもいた。
ロバート・エデレ。108番地の旧サロンをオープンした直後に応募してきたスタイリスト。カイゼル髭と、大きなもみあげをたくわえた男。ヴィダルのカット・メソッドを積極的に学び、身に付けると若手スタッフに対する教育を担った。同時にサロンのマネジメントにもその才能を発揮。まさにヴィダルの片腕のような存在だった。
そのロバートが、ヴィダルにこう提案したのだ。
「108番地のサロンを、引き継がせてもらえないか」
美容師は、いつか独立して自分のサロンを持つ。それが当然という時代だった。そのためにみな、サロンを転々としながら技術とマネジメントを学ぶ。サロンを移るのは、キャリア形成のためのステップだった。
ヴィダルもまた、その美容界の“常識”に沿ってキャリアを積んできた。サロンを転々としながら、さまざまな技術を学んだ。だからロバートの提案を素直に受け入れた。
「オッケー。わかった。君ならぼくのテクニカル・メソッドも、ルールもすべて理解しているし、実践できる。108番地を任せるのに最適な人物だ」
こうして、思い出の詰まった108番地の4階は、ロバート・エデレのサロンになった。
171番地の新サロンは、一気に話題の的となった。まず、そのファサード。だれが見ても美容室には見えなかった。道行く人が中を見通せるガラス張りのサロン。壁にはヘアスタイルの作品がずらりと並ぶ。それはまるで写真展が開催されているアートギャラリーだった。
しかし、そこは紛れもなく美容室だった。店内にはたくさんの鏡があり、若い美容師たちが女性の髪をカットしている。全員がスーツを着て、ネクタイを締めている。その様子がすべて外から見える。それが、まず革命的だった。
さらに、そこから出てくる女性たちのヘアスタイル。巻きもせず、上げもせず、固めないヘアスタイル。女性たちは背筋を伸ばし、短いスカートにブーツをはいて、さっそうと歩く。髪を自由に揺らしながら。
やがてボンドストリートには、ロンドン中から美容師が集まった。みなカメラを手に、サロンから出てくる女性たちのヘアスタイルを撮るのだ。
新サロンは順調に滑り出した……かのように見えた。
ある夜、カーゾン・プレイスのアパートの電話が鳴り響いた。午前2時半。ヴィダルは飛び起きて受話器を取る。それは警察からの電話だった。
「あなたのサロンの上の階が、陥没しました。天井が崩落して、大量の水が落ちてきています。すぐに来ていただけますか」
目が覚めた。エレインと2人、大急ぎで洋服に着替え、サロンに向かった。
言葉を失った。天井が崩落したのは一部ではなかった。ほとんど全部の天井が崩落している。しかもこの水はなんだ。サロン全体が水浸しではないか。あのオシャレで、革命的なサロン。自慢のサロン。ロンドンでいちばん注目されていたサロンが廃墟と化していた。
「上の階の床が水圧で崩落したようです」
警官が寄ってきて告げた。
呆然とした。言葉が出なかった。エレインも絶句している。ヴィダルはよろよろとサロンの片隅へと歩き、壁に背を預けて惨状を見わたした。
[なんてことだ。どうしてこんなことが起こるんだ]
いつのまにか嗚咽がもれていた。エレインもまた泣きながらヴィダルの背中をやさしくさすった。
たいへんなことだった。3万ポンドの出資が、まさしく水の泡だ。最初に考えたのが、出資者のチャールズ・プレボのことだった。彼はこの事態にどういう反応を示すだろう。
同時に考えたのがスタッフたちのことだった。ヴィダルがカット・メソッドとルールを教えた若きスタッフたち。みんな前向きで、勤勉で、すばらしいヤツばかりだ。そう思うと、さらに涙があふれる。
そしてお客さん。あたらしいサロンを喜んでくれた、たくさんのお客さん。
[どうすればいい]
ヴィダルは自分に問いかけていた。
[さて、どうする。これからどうすればいい]
頭のなかはめまぐるしく動いていた。
[そうだ]
ヴィダルはあることを思いついた。すぐに店の電話の受話器を取り上げる。
ダイヤルを回す。相手はロバート・エデレ。108番地の旧サロンを委ねた男。
夜中の3時だったが、ロバートは電話に出てくれた。
「深夜に申し訳ない。じつは……」
ヴィダルはすべてを語った。目の前で起きている大惨事の様子を。電話口でロバートもまた絶句していた。
「ロバート。じつは提案がある。ふたつ、ある。まずはヴィダル・サスーンという会社の株主になるつもりはないか?」
ロバートは即答した。
「イエス。もちろん。ぼくは、ほんとうはあなたと別の道を歩きたくはなかったんだ」
ヴィダルは、また泣きそうになった。
「ありがとう。ではもうひとつの提案だけど、君のサロンが数カ月、必要なんだ」
「わかった。いいよ。で、どうするつもりだい?」
「シフトを組みたい。ウチと君のスタッフが半分ずつ、シフトを組んで仕事をする。たとえばAチームが午前8時から午後2時までサロンワーク。Bチームは午後2時にスタートして、夜の10時までサロンワークだ。これを認めてもらえたら、この災難を乗り越えられると思うんだ。サロンを改修する期間、なんとかみんなで生き延びる」
「グッド・アイディアだ、ヴィダル。喜んで協力するよ」
協力してくれたのは、ロバートだけではなかった。スタッフたちも、全員がこの危機に立ち向かってくれた。お客さんには、新聞が伝えてくれた。サロンの惨状が写真付きで全国紙に掲載されたのだ。
チャールズ・プレボもまた、この惨事を知った。
「この危機を乗り越えるために、もう少し資金が必要か」
チャールズはそう言ってくれた。そこでヴィダルは会計士と相談し、5000ポンドの追加出資をお願いすることにした。
会計士はアイヴァー・サスーン。ヴィダルの弟のアイヴァーだった。アイヴァーは奨学金を得て大学に進み、公認会計士の資格を取っていた。その第一号の顧客が、株式会社ヴィダル・サスーンだったのだ。
チャールズはすぐに小切手を送ってきた。
改修工事はすぐに始まった。工事業者もまた協力者となってくれた。とくべにシフトを組んで、朝の8時から夜の10時まで連続して工事をしてくれるというのだ。
ヴィダルは昼間、108番地のサロンで働き、夜は171番地のサロンで工事を手伝った。工期は3カ月半。ヴィダルはほとんどサロンに泊まり込み、カーゾン・プレイスのアパートに帰ることはなかった。
改修工事が終わった。保険会社から保険金が支払われたため、チャールズ・プレボが送ってくれた小切手は使わずに済んだ。そこでヴィダルはその小切手をそのまま、お礼の手紙を添えて送り返した。チャールズは、いたく感激し、ますますヴィダルのことを信頼するのであった。
営業を再開したサロンには、以前にも増してお客がやってきた。中2階のウエイティング・スペースはいつもお客でいっぱいとなり、ついには外にあふれ出した。
また、英国中からやってくる美容師と新聞記者たちが、通りの向かい側にずらりと並んで写真を撮っている。
再オープンから1年も経つと、サロンからあふれたお客がボンドストリートに並び、約50m先の『エルメス』の角までつながっていた。その列の姿が、“事件”として新聞で報じられる。ラジオでもニュースとなる。それがまた宣伝となって、お客が増えるのであった。
サロン『ヴィダル・サスーン』は、第一期黄金時代を迎えていた。経営はすべてがうまくいっていた。
そのころ、サロンではいくつかの儀式ができあがっていた。たとえば朝、ヴィダルが最初のお客のカットを始めるまで、サロンではすべての仕事が止まり、静寂が支配する。ヴィダルの準備が整い、カットが始まるとサロンもまた動き出すのだ。
あるいは時折り、カットをしているスタッフにヴィダル本人が囁くことがある。
「ここはちがうと思うね」
スタッフは凍りつく。叱責のときは声が低く、囁くようになるのだ。
「こうして髪を引き出して、テンションをかけてカットするんだ。そのとき、身体をこう動かす」
あるいはこんなことも囁く。
「納得できないようだけど、私の忠告に従ったほうがいい。やり直せ」
サロン内にはつねに緊張感がみなぎっていた。ヴィダルが後ろを通ると手が震えるというスタッフもいた。
だが、その緊張感こそ、お客の期待に応える源泉となっていた。スタッフはヴィダルの一挙手一投足を見ていた。教わったことは、忠実に再現しようとした。そのためにみな、練習を競い合った。時間があれば街に出て、モデルを探した。
ヴィダルはお客の要望を聞かない。自分がいいと思ったヘアスタイルを提案する。ときどきお客とヴィダルの意見が合わないこともある。だが、ヴィダルは自説を曲げることはない。結局はお客を説き伏せてしまうのだ。しかし、スタッフにはそれができなかった。だからその姿をめざして勉強する。練習する。練習のために、モデルを探す。提案のためには膨大な量の練習が必要だった。
幸い、モデル探しには苦労しなかった。『ヴィダル・サスーン』の名前を出せば、多くの女性が喜んでモデルになってくれた。
“チーム・サスーン”は、着実に成長していた。スタッフたちの表情には自信がみなぎり、スーツ姿できびきびと動く姿がまた、街で話題となっていた。
しかしただひとり、満足していない男がいた。ヴィダル本人だ。
[革命を起こすのだ]
ヴィダルは信念を持っていた。起こしつつある。その実感はあった。だが、ほんとうの革命にはまた届いていない。そう思っていた。
なにかがちがう。なにかが足りない。それはわかっていた。だが、なにが足りないのか。なにがちがうのか、そこがわからなかった。
ときどき、ヴィダルはサロンワークに行き詰まった。お客の髪をカットしながら、壁にぶつかった。するとヴィダルはハサミとコームを置いて、サロンを飛び出した。『セント・ジェームズ・パーク』まで歩き、公園の真ん中で叫ぶ。そんなことが何度もあった。
相談する相手がいなかった。教えてくれる人もいない。なぜならだれも歩いたことのない道だから。だれもやったことがないことだから。
深夜、スタッフたちがみな練習を終えて家路につくと、ヴィダルはひとり、サロンに残ってレコードをかけた。
決まってかけたのは、マイルス・デイヴィスの『Kind of Blue』。ときにはマーラーの『交響曲第8番』を聞くこともあった。
旧い美容を変えたかった。余分なものはすべて排除し、根本的な角度とシェイプにたどり着きたかった。そのシェイプをカットだけで表現したかった。だが、そこに至る道は、なかなか見つからなかった。
新サロンのオープンから1年が経ったころ。ある土曜日の終業時刻。午後1時過ぎに、ヴィダルはサロンの奥で4人のスタイリストと向き合っていた。レオナード、ラファエル、カルロス、ロニー。いずれも優秀なスタイリストだった。
「辞めます」
4人はそう言った。
レオナードは、ラファエルとともにサロンをオープンするという。カルロスとロニーはそれぞれ、個別に独立する。
ショックだった。だが、引き留めはしなかった。
[どうして美容師は辞めていくのだろう]
[どうして美容師は独立するのだろう]
その点も、ヴィダルにとっては旧い美容界そのものだった。
[もっと一緒に成長できないのか]
[辞めなくてもいい、独立しなくてもいい仕組みはないのか]
[生涯、チームとして一緒に仕事ができないのか]
考えた。考え抜いた。すると、ある言葉にたどり着いた。それはチャールズ・プレボの言葉だった。
「会社が発展したら株式会社として法人化したい。その会社の株式を保有していれば、やがてふたりの娘たちに大金を残すことができるから」
[そうか。株式か。ロバートと同じ方式か]
ロバート・エデレは、あの大惨事を期に株主となった。つまり経営のパートナーだ。それと同じ方式を、チーム・サスーンにも適用する。カット・メソッドを学んだメンバー全員に適用する。そうして生涯、ずっと一緒にやっていけるチームをつくるのだ。
[ヴィダル・サスーンはぼくだけのビジネスではない。みんなのビジネスなのだ]
この決断をした直後のことである。スタッフ募集を開始した『ヴィダル・サスーン』の門を、10代の少年がふたり、相次いで叩いた。
ひとりは「ロジャー・トンプソン」、そしてもうひとりは「クリストファー・ブルッカー」と名乗った。
つづく
<第46話の予告>
次回から舞台は日本へ。米軍の『キャンプGIFU』で働き始めた大野少年の物語が再開します。朝鮮戦争が停戦となり、サンフランシスコ平和条約の調印で、日本は独立を回復。すると占領軍の撤収が始まります。『キャンプGIFU』も、日本の自衛隊への移管とともに閉鎖が決まり、大野は失業してしまうのでした。
☆参考文献
『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS
『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店
『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房
『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス
『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書
『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書
『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書
『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫
『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書
『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房
『美の構成学』三井英樹著 中公新書
『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房
『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版
『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術
『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所
『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会
『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書
『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会
『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株式会社
『MARY QUANT』マリー・クワント著 野沢佳織訳 晶文社
『スウィンギング・シックスティーズ』ブルース・インターアクションズ刊
『ザ・ストリートスタイル』高村是州著 グラフィック社刊