美容師小説

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-­第39話-­【1954年 ロンドン】 教えるってことは、学ぶことなんだ。

 採用したのは3人のアシスタントだった。

 最初にマリア・シュガーマン。女性。ポーランド生まれのユダヤ人。

 2人目はヒュー・ハウィ。男性。ウェールズ人。ヴィダルは以前からその家族と知り合いだった。

 そして最後にピーター・ローランス・テイラー。

 面接でピーターは履歴書を提示した。そこには前職として『ハウス・オブ・レイモンドでトップカラーリストだった』と書かれていた。しかし、同じサロンでトップスタイリストだったヴィダルは、その姿を見たことがない。つまり明らかな経歴詐称。しかしヴィダルはピーターを採用した。なぜか。面接があまりにも楽しかったからだ。ピーターはじつに明るく、社交的な男だった。もしかしたらこの男、チームのムードメーカーになるかもしれない。そんな予感に懸けたのだ。

 

 もうひとり。採用した女性がいる。

 エレイン。

 レセプションを任せる女性には、声の良さを求めていた。サロンに電話がかかってきたときに応対する声。あるいはサロンでお客さんをお迎えする声。それがどれほど大きく業績に貢献するか。それは『デュマス』でも、『ハウス・オブ・レイモンド』でも体験済みだった。

 内装が完成するまでの期間、ヴィダルは雑誌に求人広告を出していた。その広告を見て、応募の電話をかけてきたのがエレインだった。電話に出たヴィダルはその声に驚いた。なんとも心地よく、やわらかく、人のこころにすっと入ってきて満たしてしまう。そんな声だった。ヴィダルはエレインと電話で話している間、ずっと思っていた。

 [会ってみたい]

 翌日、面接場所であるボンド・ストリートのカフェに、エレインがやってきた。その姿を見た瞬間、ヴィダルの身体を衝撃が走る。

 美しかった。すらりと伸びた足。ブロンド。青い瞳。そしてキュートな笑顔。

 [採用!]

 面接をする前にヴィダルは決めていた。

 

 

 オープン初日。最初に来てくれたのはリラ。そしてリラの友人が2人。お客は合計3人だった。

 午後の早い時間にお客が途絶えると、ヴィダルはさっそくトレーニングを始めた。3人のアシスタントを集めて、ヴィダルのカットを教えるのだ。

 4.5インチのハサミは、フランスから取り寄せて用意していた。

 「ぼくらは女性の髪をハサミでカットする」

 ヴィダルは語り始めた。

 「この小さなハサミでカットすることで、シェイプをつくる」

 全員が、渡されたハサミを興味深そうに見つめ、動かしている。

 「パーマをかけて、逆毛を立てて、スプレーで固める。そんなコンサヴァティヴなヘアスタイルは、ぼくらはやらない。もし、そんなお客さまが来たら、帰っていただく」

 「ヒュー」

 口笛が鳴った。ピーターだった。

 「ボス。それはいいけど、今日来たお客さんが全員、そういうヘアスタイルを求めていたら、お客さんゼロですぜ」

 そう言って笑っている。

 「たしかに」

 ヴィダルも笑うしかなかった。

 「だけど、つらぬく。それだけは忘れないでほしい」

 

 

 レッスンが始まった。

 ヴィダルはまず、アシスタントのマリアをモデルにしてカットを始めた。

 [……明日からは街に出て、モデルハントをしなければ……]

 一瞬もムダにするわけにはいかなかった。昼間はお客さん。夜はレッスン。そんな日々を思い描いていた。ところがお客さんが来ない。レッスン用のモデルもいない。それでは困るのだ。

 ヴィダルは1日も早くアシスタントを戦力化したかった。と同時に、自分自身のスキルも上げていく必要があった。なにしろこれまでだれもチャレンジしたことがない技術を、サロンを、つくり上げるのだ。

 

 マリアのヘアスタイルはみるみるうちに変わっていった。当初はロングヘアを頭の頂点でまとめていたのだ。それはそれでステキだったが、ヴィダルはピンを外して髪を解くと、肩のラインでバッサリと髪を切り落としたのだった。

 「えっ」

 鏡の前でマリアは絶句している。ヴィダルはかまわず切り進める。

 

 ヴィダルは考えていた。

 [女性スタッフのヘアスタイルは、ショールームの展示品だ。ぼくらがやりたい革命を、お客さんにひと目でわかってもらわなくてはならない]

 

 「女性の美しさのひとつはこの首と交差する顎のライン。この角度にある。ほら、ここ。耳の下から顎の先に向かう骨の角度。この美しさをどう引き出してあげるか」

 いったん肩まで切った髪に、再びヴィダルはハサミを入れていく。マリアの髪はどんどん短くなっていった。

 マリアは、鏡のなかで心配そうな表情だ。ヒューとピーターは興味深そうに顔を近づけて、ヴィダルのハサミの動きを真剣に見つめている。

 

 しばらくすると、ヴィダルはハサミの動きを止めた。マリアの髪は右半分がまさに顎のラインに合わせてきれいに切りそろえられている。

 「ヒュー、残りの左半分を同じ長さでまっすぐに切ってごらん」

 指名されたヒュー・ハウィはハサミを右手にマリアに近づいた。だが、なかなか切り始めない。そこでヴィダルがアドヴァイス。

 「ヒュー、こっち側の髪をガイドにするんだ」

 そう言って、ヴィダルは自分が切った右半分の髪と、まだ切れていない左半分の髪との接点を指さした。それから右側の髪の束を、左手の人差し指と中指で挟んで下向きに軽く引っ張った。

 「ほら、これがガイドとなる。この長さに合わせて左側も切ってごらん」

 そう言って、ヴィダルは左側の長い髪も少しだけ一緒に指で挟み、下向きに引いた。

 ヒューの指はヴィダルが挟んだ髪を引き継ぐ。指先には、右側に短い毛束。左側に長い毛束。ヒューは長いほうにハサミを入れる。刃の角度を水平に保ちながら、短いほうの髪の長さと同じ場所を切る。

 「そうだ、ヒュー。なかなかいいぞ」

 

 結果的に、ヒューは左側の髪をまっすぐには切れなかった。ガイドに合わせて切っていくのだが、その長さはだんだん短くなっていくのだ。

 マリアの表情はますます心配そうだ。

 「だいじょうぶ。マリア、ぼくがちゃんと直してあげるから」

 そう言ってヴィダルは、ヒューのあとを引き継いで長さを合わせはじめた。

 

 ヴィダルには、ヒューの気持ちがよくわかった。ガイドに合わせて切っても、同じ長さには切れないのだ。それはヴィダル自身がこの1年、ずっと格闘してきたことだった。

 なぜ、長さが合わないのか。

 なぜ、まっすぐに切れないのか。

 

 最初、ヴィダルは自分の才能を疑った。

 [まっすぐに切れないのは、ぼくの技量が足りないのか。もしかするとそもそも才能がないのか]

 だが『ハウス・オブ・レイモンド』で約1年間、モデルカットをつづけてわかった。

 できないのだ。だれもが最初からまっすぐには切れない。だけど、コツを学べば切れるようになる。ただ、問題はそのコツをどうやって伝えるか。

 

 アシスタントを戦力化する。そのためには自分が技術を獲得するためにかけてきた時間を圧倒的に圧縮しなくてはならない。それを可能にするのが“教育”だった。

 

 

 ヴィダルは『ハウス・オブ・レイモンド』を辞めてから数カ月、“教育”で生活の糧を得ていた。イーストエンドの『アドルフ・コーエン・サロン』で共に働いた友人ロバート・ザックハムが、頼み込んできたのだ。

 「なぁヴィダル、ウチのスタッフにカットを教えてくれないか」

 失業中のヴィダルにとって、それは願ってもないオファーだった。

 ロバートは2店舗を経営していた。それぞれの店舗に週1回、営業終了後の夜に行ってカットを教える。

 ヴィダルは生まれて初めて、“教育”で稼ぐ日々を過ごしたのだった。

 

 最初の夜。ロバートのサロンを訪れると、ヴィダルは『ハウス・オブ・レイモンド』の元・トップスタイリストだと紹介された。そのサロン名を聞いた瞬間、スタッフ全員の目の色が変わった。

 

 教育は楽しかった。だが、むずかしくもあった。

 ヴィダルが独学で身に付けてきたカット・テクニック。それは毎日、レイモンドのハサミの使い方を見て、手首の動かし方を真似ることから始まった。その真似を毎夜、モデルの髪で試してみる。しかし、できない。だから翌日も見る。真似る。試す。そのような試行錯誤の日々から見つけ出したテクニック。それをコトバにする。ステップに分ける。やってみせる。そして、やらせてみる。そのプロセスがまず、学ぶことだらけだった。教えるためには、徹底的な準備が必要だった。そしてその準備によって、ヴィダルは自分の技術をひとつずつ確認していくのだった。

 

 サロンワークで技術を使うとき。その原動力となるのは“HOW”だった。どのようにハサミを使うのか。どのように手首を動かすのか。

 当初、ヴィダルはその“HOW”を、そのまま伝えればいいのだと思っていた。ところが、教える現場を想定してシミュレーションをしてみると、それだけでは伝わらないような気がしてきたのだ。

 ヴィダルはシミュレーションをひとりでやってみた。先生役の自分と、生徒役の自分を頭のなかでイメージしながら。するとやっかいなことが起こった。

 生徒役の自分から、次々と出てくるひとつのコトバに、先生役は立ち往生してしまうのだった。

 それは“WHY”。

 なぜ、ハサミをそう動かすのか。なぜ、手首はこう動かすのか。そもそもなぜ、あなたはハサミで髪をカットするのか。

 WHY ? WHY ? WHY ? WHY ?

そのひとつひとつにどう答えるのか。それがヴィダルの“準備”だった。そしてヴィダルは気づくのである。

 [教えるってことは、学ぶことなんだ]

 以来、ヴィダルは生涯を通してその真理と向き合いつづけることになる。

 

 

 さてもうひとつ、ヴィダルが直面する重要課題があった。

 “お客さん”である。

 

 オープン初日の夜。まずリラにお礼の電話をすると、つづいてヴィダルはリリアンに電話をかけた。

 

 リリアン・クロット。イーストエンド時代の幼なじみ。ヴィダルより5歳年下の女の子だった。

 すばらしい才能の持ち主だった。幼少のころからその歌声は、周囲の大人たちを驚かせていた。

 終戦の翌年。ユダヤ人排斥運動と闘い、シオニズム(※)に傾倒していくヴィダルはある日、リリアンをアマチュア歌唱コンテストに連れていった。当時、リリアンは13歳。

 コンテストに出場したリリアンの歌声は無類のなめらかさと独特の艶とを併せ持ち、観衆と審査員の全員を魅了。優勝の栄冠を勝ち獲ったのだった。

 

 そのリリアンも今や21歳。ミュージカル女優となって活躍を始めていた。

 「やぁ、リリアン」

 ヴィダルが呼びかけると、あの快活な声が電話口で弾んだ。

 「まぁ、ヴィッド。お久しぶり。お元気かしら」

 「うん、元気さ。君はどうだい」

 「私はいま、ピカデリー(※)で『三文オペラ』(※)に出演中よ」

 「すごいね。ぼくのほうはボンド・ストリートにサロンをオープンしたよ」

 「あら、いよいよね。私、行くわよ」

 「うん、ぜひ来てくれ。たけどリリアン、君だけじゃ足りないんだ。このロンドンで、ぼくのことを知ってる人はまだひとりもいない。でもぼくはこのヘアドレッシングの世界を変えたいんだ。だからいま必要なのはその革命を理解して、認めてくれるお客さんなんだ」

 「ヴィッド。心配いらないわ。そうね、まずアニー・ロスとチェリー・ワイナーを送り込んであげる。このふたりから、クチコミでどんどん拡がっていくはずよ」

 

 アニー・ロス。それは米国で大活躍していたジャズ・シンガーである。スウィング・ジャズのビッグバンド『カウント・ベイシー・オーケストラ』とともに、あたらしいサウンドをつくり出す女性ヴォーカリスト。ちょうど故郷の英国に戻り、ロンドンを拠点に新たな活躍を始めようとしていた。

 チェリー・ワイナーは、ジャズ・オルガンの名手。英国中のクラブが、彼女の演奏を求めていた。

 

 アニー・ロスをサロンに迎えたとき、ヴィダルは思った。

 [なんとも重くて、野暮ったいヘアスタイルだなぁ]

 アニーは黒髪の持ち主で、髪の量も多かった。そのうえ髪は肩までかかり、しかもちょうど目のラインから下側が全体的にふくらんでいて、ますます重そうに見える。

 「大胆にカットするけど、いいですか?」

 ヴィダルはあらかじめ断りを入れた。

 「かまわないわ。あなたに任せます」

 アニーは答えた。

 

 約1時間後、アニーは生まれ変わった。

 ヴィダルはまさしく大胆にハサミを入れた。重い髪の全体をカットし、分け目も左右逆にした。骨格を活かし、毛流に従い、ベリーショートのヘアスタイルをつくった。その結果、アニーはモダンな、いや前衛的なアーティストの風貌を手に入れたのだ。

 「すごいわ。ヴィダル、あなたっておもしろい」

 アニーは大喜びで帰っていった。

 

 それから、である。ヴィダルのサロンには次々とシンガーがやってきた。ジャズ・ピアニストもやってきた。ヴァイオリニストもやってきた。

 アニーとチェリーのつながりからまずは音楽関係のアーティストたち。そこからつながって、演出家。映画監督。女優。フォトグラファー。編集者……。

 次から次へとやってくる。オープンして3カ月が経つころには、サロンはお客であふれていた。しかもそのほとんどがアーティストやクリエイターたちだった。

 

 

つづく

 

 

 

 

 

※ピカデリー

ロンドンの中心地。『ピカデリー・サーカス』という広場の周辺エリア。劇場街として有名な『ウエスト・エンド』の一部でもある。

 

※三文オペラ(さんもんオペラ)

ロンドンを舞台にしたブレヒトの戯曲。初演は1928年。

 

※シオニズム

「イスラエルの地(パレスチナ)」に、ユダヤ人の故郷を再建しようとする運動。つまり「シオン(Zion)の地に帰る」運動のこと。「シオン」とは、聖地エルサレムの丘の名前。1890年代に提唱され、1948年のイスラエル建国につながった。

 

 

 


 

 

<第40話の予告>

ヴィダルの“革命”は、まず若きアーティストたちから広まっていった。知り合いになったフォトグラファーは、ヴィダルがつくったヘアスタイルを撮影。その写真がサロンの壁を占領していく。だが一方で、“旧世代”のお客も時々やってくる。そのとき、ヴィダルはどういう対応をするか。スタッフ全員が見つめているのだった。

 

 


 

 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術

『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所

『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会

『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書

『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会

『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株式会社

 

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