「有名になって高級車に乗ることだけが成功じゃない」美容師の生き方を広げる美容文藝誌「髪とアタシ」って?
これまでメディアに取り上げられなかったような、“オモシロキ美容師”を独自の切り口で紹介する美容文藝誌『髪とアタシ』。代官山の「蔦屋書店」や下北沢の「B&B」など全国50店舗の書店でも扱われ、美容師をはじめ感度の高い人たちの関心を集めています。カリスマ美容師やカットプロセスも載っていない『髪とアタシ』とは、一体どんな雑誌なのか? 元美容師の編集長ミネシンゴさんに、創刊に至るまでの経緯、そして『髪とアタシ』が伝えたいヒト・コト・モノを伺いました。
腰痛に振り回された、紆余曲折の美容人生
-ミネさんは美容師を経験されていますが、どのようなきっかけで美容師を辞めたのでしょうか?
「美容学校卒業後、数店舗で約2年ほど美容師アシスタントとして働いていたのですが、サイドシャンプーで腰をやってしまい、足が痺れてくるほどひどくなりまして…。それで、MRIを撮ったら椎間板ヘルニアと診断され、志半ばで美容師を辞めることになりました」
-美容師の次に選んだ職業は編集者。なぜその道へ?
「美容師を辞めてからも、美容業界でなにかやりたいとは思っていました。その頃、美容師を目指しているときに読んですごく感銘を受けた、『美意識の芽』という本の存在が心の中にずっとあって、その著者の五十嵐郁雄さんに思い切ってメールを送って会いに行きました。もちろん面識も繋がりもありません(笑)。五十嵐さんは元『しんびよう』の編集長で、その当時はすでに独立されていたのですが、『美容業界でなにかやりたい』って伝えたら『編集でもやってみたら』と言われたんです。“編集”なんて考えはそれまで全くなかったけど、たしかに学生時代に美容業界誌をすごく好きで読んでいたし、自分でフリーペーパーを作っていたりもしたので、そっちの世界があったな…と」
-大学も行かず編集経験もないミネさんだったが、数回の面接を経て髪書房に入社し『Ocappa』の編集者としてリスタート。編集者時代はどのような仕事を担当されていたのでしょうか?
「編集スキルが全くなかった入社当時は、小さなコラムコーナーを担当していました。そこから半年くらいで徐々にほかのページも任せてもらえるようになって、表紙撮影に立ち会ったりや特集も担当するようになりました。それまで美容業界誌に美容師出身の編集者がいなかったらしく、美容師目線でプロセスカットを撮ったり構成を組んだりできたのは、元美容師の強みでしたね。有名なカリスマ美容師の方々や美容界の大御所さんの話を聞く機会も多くて、そのうちそれに感化されてきちゃって、『腰が治っていたらまた美容師やりたいな』と思うようになってきたんです。で、試しにMRIを撮ってみたら治ってた(笑)。じゃあ、もう1回美容師やろう! ということで、約2年で髪書房を辞めて鎌倉のヘアサロンに入店しました」
-なぜ東京ではなく鎌倉に拠点を移したんですか?
「地元が神奈川っていうのもあるし、東京で第一線に立つより、もっと自分が心地いいと思える場所で働きたいという気持ちの変化もありました。それと同時に、一部の有名サロンはファッションやデザインを追求していくスタイルでいいかもしれないけど、そのほかの、特に地方の美容室は、人の暮らしや地域に根ざした活動をしているとか、なにかしらの特徴がないと生き残っていけないなとも感じ始めていました。鎌倉のサロンは、お店をDIYしたり雑貨を売ったり、ジャズライブをしたり、有名な文化人がお客様だったりして、面白いサロンでしたね」
-ところが、またも腰痛に悩まされる。プレイヤーとしての美容師を諦め、大手広告代理店「リクルート」の営業マンへと転職されますが、これまたなぜ?
「そろそろスタイリストデビューかなっていう直前で、またまた腰を痛めました。そのサロンもサイドシャンプーで、いろいろと工夫してみたんですけどダメでした。シャンプー以外でも、立っているだけで腰痛がひどくなってきて、MRIをとったら案の定椎間板ヘルニアになっていました。ちょうどその頃、父親を癌で亡くしまして、両親も美容師をずっと反対していたし、もうここでプレイヤーは諦めようと決意しました。でも、いつか箱(サロン)は持ちたいと思っていたので、それを叶えるために自分に足りないスキルは何だろう?と考えたときに『営業力』と『プロモーション力』だと思ったんです。それで、『ホットペッパービューティー』の営業マンとして3年半働きました」