「やあ、ママ。帰ってきたよ」
ヴィダルは自宅に戻った。空軍の訓練所を“脱走”して。
母は待っていた。だが、それはヴィダルを赦すためではなく、抱きしめるためでもなかった。
「何をやったの? どうして無断外出なんかしたの?」
厳しい言葉が飛んできた。
母は、怒っていた。
軍は、すでに母への連絡を済ませていた。
[あなたの息子、ヴィダル・サスーンが無届けで外出しています。軍としては“脱走”とすべきか検討中です。もし帰宅するようなことがあれば、すぐに連絡をください]
母はヴィダルに向かって言い放った。
「これはとんでもないことよ。私たち家族の恥辱です。すぐに軍当局に連絡します」
母はくるりと背を向けて、キッチンへと消えた。
ヴィダルは玄関に立ち尽くしていた。
母の拒絶。それは衝撃だった。母なら受け入れてくれる。そう信じていた。話を聞いてくれる。理解してくれる、と。
混乱していた。玄関から、外へ出るまでどのくらいの時間が経っていただろう。無言のまま、ドアを開けて外へ出る。
ぼくはこれからどこに行けばいいのか。
わからなかった。
通りに出ると、目の前に1台のジープが急停止した。中から2人の軍人が飛び出てきてヴィダルの両腕に取りついた。身体が浮くほどの強い力が、ジープの中へとヴィダルを押し込む。思い切り首を回して玄関を振り返る。だが、そこに母はいなかった。
ジープは真夜中のロンドンを北へ向かって駆け抜けた。
30分ほど走っただろうか。速度を落とし、大きな道を左へ曲がると軍事施設に入っていく。ヴィダルはジープから降ろされ、ひとつの部屋に連れて行かれた。そこには厳しい表情をした3人の将校が立っていた。
彼らはデスクの上に置かれた記録を手にしては、交互に見ていた。やがて真ん中の将校が言った。
「君はどうしてもトラブルからは離れられないようだな」
訓練中のケンカは、すでに記録に残っているのだろう。もしかしたら、あのイェシーバ(ユダヤ教の宗教学校)の生徒の件も。
「さて、サスーン。君を元の部隊に戻したら、二度と騒ぎを起こさないと約束できるか?」
ヴィダルは答えた。
「はい。二度と騒ぎは起こさないでしょう」
そう言って、ヴィダルは背筋を伸ばし、将校をまっすぐに見据えて言葉をつづけた。
「ただ、問題は人種的偏見なのです。私は差別を受けることだけは耐えられません。それがどんなかたちであれ」
将校はじっとヴィダルの目を見つめ返し、命令した。
「席を外したまえ」
ヴィダルの両腕は再び、2人の軍人に抱えられて廊下に出された。ひとりが部屋に戻り、ひとりがヴィダルを見張る。
10分ほど経っただろうか。部屋に入ったひとりが戻ってきた。ヴィダルは再び、2人の軍人に抱えられ、外のジープに乗せられた。
2度目のドライブは約1時間。到着したのは病院のようだった。
ヘッドライトが看板を映し出す。
『The Psychiatric Ward of Military Hospital』
<陸軍病院 精神科病棟>
がく然とした。軍はぼくを精神病院に入れるのか。
両腕を抱える軍人は、力強くヴィダルを支えて病室へと“連行”した。抵抗は無意味だった。
薄暗い廊下を行くと、病室の中から叫び声が聞こえてきた。
「これはすべて夢だ。夢の中の出来事だ。ママ、ぼくを起こして。目を覚まさせて。早く家に連れ帰って」
ヴィダルも、まったく同じことを叫びたかった。
叫びつづける男の病室から3つ先の病室。両脇の軍人のひとりが、ドアを開けた。
患者たちは無言だった。数えると5人。みな寝ているわけではない。まぶたを開けて焦点の定まらない目をさらしている。よく見ると、ベルトでベッドに縛り付けられている患者もいた。
ヴィダルは震えた。恐怖におののいた。絶望が襲いかかってくる。気がつくと、ヴィダルは叫んでいた。
「No ! No ! No !」
すぐに医師が飛んできた。“連行”してきた軍人に身体をベッドに押しつけられる。医師はヴィダルの左腕に注射を打った。1本。2本。3本。記憶は途中で途切れた。
目が覚めたのは6日後だった。頭は、その中心から頭蓋骨に向かってガンガンと音がするほど痛んだ。身体には力が入らず、ここがどこなのかさえ、しばらくの間わからなかった。
医師がやってきた。いくつか質問をするが、頭痛が激しくて聞こえない。答えることもできない。ヴィダルは口を動かす力も意思も失っていた。
除隊であった。ヴィダルは除隊となった。理由は医学的障害。[精神に問題あり]という診断が下され、ヴィダルは自宅に送還された。
母は、もう怒ってはいなかった。ヴィダルを出迎えた母は、無言で抱きしめてくれた。
しかしヴィダルは喜べなかった。心の中には自分を責める感情があった。それからもうひとつ。自分を信じられないという感情も。
“除隊”。それは徴兵期間の半ばで、軍から放り出されたことを意味していた。つまり英国青年の義務を果たせなかった、ということだ。それは何より“不名誉”なこと。そんな認識がヴィダルを責めた。自分が、自分を責めるのだった。
ぼくはほんとうに不名誉な男なのだろうか。
ヴィダルはユダヤ人だった。と同時に、英国人でもあった。
国籍は英国。しかし、ユダヤ人。この二重構造は、ヴィダルだけでなく無数のユダヤ人を苦しめつづけてきた。
“出エジプト”により、世界中に散らばっていったユダヤ人。さまざまな土地に根付き、さまざまな国の国民となった。だがユダヤ人は世界中(主にキリスト教社会)で差別され、迫害された。ユダヤ人である、ということだけで。
たとえば中世のころ、ヨーロッパではユダヤ人に許された職業はほとんどなかった。ユダヤ人には土地の所有も、農業への従事も禁止されていた。だからユダヤ人は“金貸し”になるしかなかった。その他に選択肢があるとすれば、行商か芸能。
しかし、単に金を貸すだけでは食べてはいけない。貸すからには当然、金利をとる。それがまたキリスト教徒の蔑みを積み上げた。キリスト教は“金利”を禁止していたのである。
曰く[利息をつけて金を貸してはならない]。
つまりキリスト教徒からみると、“金貸し”とは[呪われた職業]だったのである。
シェークスピアの『ヴェニスの商人』は、その典型的な例を伝えていた。ヴィダルは一度だけ、その物語を読んだことがある。キリスト教徒は、それを“喜劇”だと言った。しかしヴィダルは読み進めるうちに激しい怒りと哀しみの感情を抑えられなかった。
ヴィダルにとって『ヴェニスの商人』は、ユダヤ人・シャイロックの“悲劇”だった。
中世から近代を経て、現代になってもなおユダヤ人は迫害されつづけてきた。迫害どころか、ナチスはユダヤ人を“絶滅”させようとした。
人類は“ホロコースト”の事実を知った。戦後になってようやく多くの人々が、そのあまりに理不尽で不条理な行為を糾弾するようになった。にも関わらず、差別はなくならないのだ。
ヴィダルは時々わからなくなった。差別する側ではなく、差別されるわれわれが悪いのか。
いや、ちがう。絶対にちがう。差別される側が悪いはずがない。いつもそう言って振り払う。差別する側が、悪いのだ。
今回もそうだ。ぼくはけっして不名誉な男ではない。糾弾されるべきは、あの男だ。ぼくを侮辱した、あの男だ。なのに英国空軍は、ぼくを病院に送った。鎮静剤をしこたま打って、ぼくを“除隊”にした。なぜだ。ぼくは間違ってはいない。間違ったことはしていない。
そう言い聞かせて、なんとか精神の安定を取り戻す。だけどその安定はすぐに乱れる。いつも乱れる。
アイデンティティの危機だった。ぼくはいったい何者なのか。それを確かめなくてはならない。英国人であり、ユダヤ人であること。父親に捨てられ、母親に孤児院へ送られたこと。美容師であること。だけど今の美容には満足ができないこと。まったく魅力を感じないこと。
なにもかもが不安定だった。ヴィダルは自分を世界と結びつけるアイデンティティを欲していた。この地球と自分を、しっかりと結びつけるアイデンティティを。
〔ぼくはいったい何者なのだ〕
美容師に、戻った。ヴィダルはメイフェア地区に戻り、雇ってくれる美容室を探した。
仕事はすぐに見つかった。だが、長続きはしなかった。
気がつけば1年半で4サロンを転々としていた。
どのサロンにも特徴があった。経営者は才能にあふれ、美容ビジネスに関しても豊富なアイデアをもっていた。だが、やはりスプレーだった。パーマであり、セットであった。ヴィダルが求めている美容は、なかった。
いや、“なかった”わけではない。“見つからなかった”わけでもない。ヴィダルにもわからなかったのだ。自分が何を、どんな美容を求めているのか。
もどかしかった。はがゆかった。だけど、どうにもならなかった。
1947年11月29日。国際連合が画期的な決議を行った。
『パレスチナ分割』。
パレスチナは、神がイスラエルの民(ユダヤ教徒)に与えた『約束の地』だと信じられてきた。また古代イスラエル・ユダ王国の首都であった『エルサレム』もまた、ユダヤ人にとっての聖地であった。
ところが、あるときユダヤ教を批判して改革に乗り出す男が登場する。ユダヤ人『イエス・キリスト』である。だが、キリストは自らを「神の子」「ユダヤ人の王」などと称したことなどで、反逆者としてユダヤ人に告発され、ローマ帝国によって十字架にかけられる。その磔の地は『ゴルゴタの丘』と呼ばれ、エルサレムにあった。だからキリスト教にとっても、エルサレムは聖地だった。
さらに紀元600年ごろ、ユダヤ教とキリスト教から示唆を受けた『イスラム教』が興ると、預言者ムハンマドが神の啓示を受けた場所がエルサレムの『岩の神殿』だった、ということになった。
つまり3つの宗教の聖地がパレスチナのエルサレムという街に存在していた。
このようにただでさえ複雑な聖地を、さらに複雑にしたのが英国であった。
第一次世界大戦当時、パレスチナを植民地支配していたのは英国だった。英国の駐エジプト高等弁務官・マクマホンはオスマントルコとの戦いを有利にするため、アラブの守護職・フセインに対し〔(パレスチナを含む)東アラブ地方およびアラビア半島にアラブの王国を建設することを支持する〕という書簡を送る。いわゆる『フセイン・マクマホン協定』である。
一方、その2年後、英国の外相バルフォアは、国内外のユダヤ人の協力(主に戦費)を得るためにユダヤ人の富豪・ロスチャイルドを通じて英国のシオニスト組織に書簡を出す。曰く〔英国政府はパレスチナでのユダヤ人国家建設を支持・協力する〕。これは後に『バルフォア宣言』と呼ばれる。
つまり英国はパレスチナをめぐり、アラブとユダヤの双方に“国家建設”のお墨付きを与えてしまった。
バルフォア宣言に呼応して、大量のユダヤ人がパレスチナへ流入する。しかしそこにはすでに多くのアラブ人が住み着いていた。
当然、衝突が起こる。アラブ人から見れば、ユダヤ人の“侵略”。ユダヤ人から見れば、宿願の“国家建設”。
第二次世界大戦が終わると、ホロコーストの体験もあってユダヤ人の“国家建設”への情熱はますます燃え盛る。当時、パレスチナを委任統治していた英国は、世界中から殺到しようとするユダヤ人をなんとか押しとどめようとする。ユダヤ人はそれに反発し、武装組織をつくって抵抗する。混乱にはますます拍車がかかり、英国はついに自らが招いた“パレスチナ問題”を投げ出してしまったのである。
解決をゆだねられた国連は、『パレスチナ分割』を決議。〔パレスチナをアラブ、ユダヤの2カ国に分割し、エルサレムおよび周辺地域を国際管理下に置く〕
とした。
それが1947年11月29日の決議であった。
ユダヤ人は歓喜した。ついに、3000年来の宿願“ユダヤ人国家建設”が成就する。だが、アラブ人は猛反発した。
翌1948年5月14日。英国軍がパレスチナから撤退すると同時に、ユダヤ国民評議会は〔イスラエル国の独立〕を宣言。すると同日、アラブ連盟5カ国(レバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプト)は、宣戦布告。連合軍15万でパレスチナへ侵攻した。第一次中東戦争の勃発だった。迎え撃つイスラエル軍は3万。
アラブ側の主力は、アラブ軍団と呼ばれる精鋭部隊を擁するヨルダン軍と、シナイ半島から侵入してくるエジプト軍だった。対するイスラエル軍。人数も圧倒的に少ないうえに、国連によって武力の保持を禁じられていたため、英国に対抗してきたゲリラ部隊が所持していた小銃などで応戦するしかなかった。
5月18日。ヨルダン軍はエルサレムに殺到。市街を包囲する。28日には旧市街のユダヤ人防衛部隊が降伏。しかし新市街はイスラエルが死守していた。
国連は、停戦に向けて奔走。6月になって停戦勧告を決議。アラブとイスラエル双方はこれを受け入れ、6月11日から4週間の停戦となった。
刻々と入ってくるニュースに、ヴィダルは居ても立ってもいられなかった。3000年を超えて願い続けてきたユダヤ人国家の建設が始まっている。英国からもボランティアの活動家が続々とイスラエルへ流れ込んでいた。
「ぼく、行くよ」
短く告げた。自分もイスラエルに行く。行って戦う。あたらしい国の建設のために。そして自分のために。自分のアイデンティティ確立のために。
だれもぼくを止めることはできない。
ヴィダルは、ともにファシストと戦った『43グループ』の幹部に連絡した。英国の若者がイスラエルへと向かうことは禁じられていた。当局は、空港や駅で監視をつづけている。
『43グループ』からの指示が来た。
〔ひとりずつ動け。まずはパリへ行け〕
ヴィダルはドーバー海峡を渡る船に潜り込んだ。
1948年7月のことだった。
つづく
☆参考文献
『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS
『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店
『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房
『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス
『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書
『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書
『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書
『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫
『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書