Side Burn 太市 オリジナリティの、魔力。【GENERATION】雑誌リクエストQJ2002年4月号より
雑誌「リクエストQJ」創刊以来の看板企画「GENERATION(ジェネレーション)」。
昭和〜平成〜令和と激動の美容業界において、その一時代を築いてきた美容師さんを深堀りしたロングインタビューです。
300回以上続いた連載の中から、時を経た今もなお、美容師さんにぜひ読んでいただきたいストーリーをピックアップしていきます。
今回は2002年4月号から、『Side Burn』太市さん(掲載当時は「太地」)のお話。前衛的なヘアデザインを次々と発表し、業界をリードしてきた太市さん。急逝から3年。クリエイションに対してひたむきに取り組んできた太市さんを偲びながら、当時の強い意志や想いを感じ取れるインタビューをご紹介します。
ライター:岡 高志
日本人にはオリジナリティが、ない。
だれが言い始めたのか知らないが、
なぜか定説としてひとり歩きしている。
日本人は人と同じことを、同じようにやっていないと不安になる。
そんな暴言を、だれが吐いているのか。
周囲を見渡してみるといい。
だれが同じ服を着て、同じ仕事に就き、同じ生き方をしているというのか。
オリジナリティというコトバには、魔力がある。
つい、自己否定をしたくなるような魔力。
確かに、私たちは個性を抑圧するよう指導されてきた。
しかし社会人になると個性がうじゃうじゃしている。
自分とは全く別の人格が、すぐ目の前にいる。
それはオリジナリティではないのか。
太地は体現している。
自分は、他人とは違うという真理を。
サロンの現場で、さらには表現のステージで。
太地、と書く。
たいち、と読む。
お店の名前は『サイドバーン』。つまり男性の“もみあげ”である。
美容室の名前に“もみあげ”‥‥。
インタビューが簡単に進むとは思っていなかった。
事前に入手できた資料はほとんどなかったし、本誌の担当編集者は「インタビューの前に打ち合わせがしたい」と、求められていた。
もしかしたらインタビューが好きではないのかもしれない‥‥。
不安になった。
美容師は“クリエイター”である。
全国の美容師が毎日、お客さんの頭をつくっている。
ヘアスタイルを創造している。
その一点に限っても、クリエイターである。
太地はその枠を飛び越え、まず写真にのめり込んだ。
独自の世界観を“作品”として発表した。
初めて、彼の“作品”が誌面を飾ったのは『ヘアモード』誌。
独立したてのころ、彼は“新人紹介”というかたちで4ページを与えられた。
そこに彼は自分の世界を構築したのだ。
当時、業界誌の常識だった“ヘアスタイルの発表”ではなく、一枚の写真としての“作品”化。
いまでこそけっして珍しくはないその手法だが、当時の美容界には衝撃だった。
以来、彼には“作品”を前提とした仕事が次々と舞い込む。
彼は懸命に応えた。“作品”づくりに全力投球で取り組んだ。
『JHAグランプリ』の獲得はその延長線上にある。
やがて美容師は、彼の手法を取り入れ始める。
ヘアスタイルの発表ではなく、自己の世界を表現する“作品”づくり。
美容師は、自己表現という翼を持った。
その後、いわゆる“カリスマ美容師”ブームが絶頂を迎えるころ、彼はそれを横目で見ながら次の手法に取り組んでいた。
映像、である。
平面、かつ固定した表現手法である写真から、音も動きも表現できる映像へ。彼は1本のビデオを完成させ、世の中に問いかけた。
その映像をヘアショーで流し、ショーの映像と合体させてパッケージ化し、販売する。
そのまま映像作家への道を歩み始めるかと思うと、彼は一転して舞い戻る。
再びスティルへ。つまり写真の世界へ。
今年3月15日。
ちょうどこの号が読者の皆さんに届くその日に、彼の写真集がリリースされる。
左ページ上の写真を含めて、今回の記事を彩る“作品”はすべて、その写真集に収められたものの一部だ。
そのような名も実もあるクリエイターに対し、無名の私が何を聞けるのか‥‥。
不安はますます高まっていった。
不器用さの、自己認識
不安は半分、的中した。
太地は、戸惑っていた。
最初は笑顔のあいさつだった。
“打ち合わせ”はほとんど必要なく、すぐにインタビューに突入。
だが、最初の約30分間、彼は戸惑いつづけていた。
私が聞いたのは「なぜ、美容師になったのか」「なぜ、SHIMAに入ったのか」「SHIMAに入る前に勤めていた美容室は」‥‥。
どれもが、この企画で必ず聞き出す取材項目だった。
だが、彼はほとんどノっては来なかった。
しかし、私はしつこく聞いた。
太地が辟易とし始めても、私は質問をやめなかった。
そしてついに、彼の入り口に立つきっかけをつかんだ。
それは『SHIMA』で、アシスタントをしていたころの話題だった。
太地は福島県の出身である。
高校時代はバイクに熱中し、仲間とともに轟音を響かせて街なかを疾走していた。会社員になるつもりなど全くなかった彼は、地元では最も派手な服装が許されていた職業への道を歩もうとする。それが美容師。
会津理容美容高等専修学校を「ギリギリで」卒業した彼は、東京郊外の美容室に就職。だが、そこに“東京”は、なかった。つまり、彼が思い描いていた最先端の技術も、感覚もなかった。
そこで彼は青山をめざす。
彼が選んだのは『SHIMA』だった。
青山店に面接に行った彼は、当時の店長に圧倒される。
八木岡聡、であった。
現在は代官山で『DaB』を主宰する八木岡聡の面接を受けた瞬間、彼は入社を決める。
「オレ、けっこう直感派なんで、理屈じゃないんです。オーラみたいなエネルギーを感じたんじゃないでしょうかね。なんだかよくわかんないけど、確かになんかピンときたんですよ」
入社すると、それまでの1年半の経験はゼロに戻される。
シャンプーからのスタート。それも覚悟のうえだった。
技術者になるまで3年弱。彼はアシスタントとして仕事をしながら練習をつづけた。
そのアシスタント時代の話、である。
彼はそのころ「人の3倍、練習していた」と言ったのだ。
その話は、“もともとあなたは器用だったのか”という私の質問から生まれてきた。
「器用ではないです。どっちかというと不器用。ただ、自分で言うのもなんですけど、イメージ力がすごくあるんですよ。こうしようというイメージがクリアなんですね。だからそこに近づけていくんだけど、実は不器用なんです」
イメージ‥‥。
つまりヘアスタイルのイメージ。
それはアシスタントのころから独自に思い描いていたのか。
「ある程度、あったほうだと思います。そのころは明確には気づいていないけど。たとえばそういうものを見過ごしちゃう人と、インプットしていく人っていう差があるでしょ。自分はたぶん、いろんなものを見たら、気になるモノは全部入れちゃうみたいな感じなんですよ」
気になるもの‥‥。
「たとえばシャンプーしてても先輩が気になる。カッコイイものを切ってたら、じっと見て、覚える」
それを練習で再現する。
つまり教わるものではなくて、自分の感覚がものさし。
「そう。でも、やってみると時間がかかるし、失敗も多いんですよね」
つまりイメージはある。でもそれがかたちにできない‥‥。
「辛いけどね。でもそれは自分の長所、短所みたいなことで、自分のなかでちゃんとわかってた部分なんで。結局、自分は練習量が多くないとできないほうだな、と。それをちゃんと自分で認識してたから、やりますよね。人の3倍くらいは」
3倍‥‥。
「えぇ。3倍くらいはやってましたね。みんな帰ってから、お店に泊まったり」
夜中の2時、3時‥‥。
「うん。朝までとか。みんな出勤してくると、ぼくだけお店に寝てたりとか。そういう時期を過ごしてましたね。SHIMAに入って5年目くらいまでは」
入社して5年‥‥。
つまり技術者になっても2年くらいは、ほぼ徹夜の日々だったということなのか。
「そうですね」
いったい何が、そこまでやらせるのか。
「いや、だって楽しいじゃないですか。うまくなっていく自分を想像するだけで楽しい。先輩よりもうまくなってる自分とか。だからあんまりたいへんだとは思わなかったですね。むしろ楽しくってしょうがない。ワクワクしながら練習してましたね」